2016年05月21日

万人預言者

                 
                   万人預言者
                 
                 使徒2:17〜18


 ペンテコステの日に起こった出来事は、キリスト教の歴史の中でも非常に大切です。それは新しい時代の幕開けでした。旧約時代は、主に父なる神が表に出てくださっていました。それからキリストが誕生され、子なる神のお働きに焦点が集まりました。それがこの日を境に、聖霊なる神のお働きに重点が移っているのです。
 昇天されたキリストが、「別の助け主」である聖霊をお送りくださって、弟子たちの交わりの内に住んでくださるようになったことにより、弟子たちの一団は単なる人間の集まりではなく、聖霊の宮、教会となり、キリストの体となったのです。
 またそのとき、預言者ヨエルの預言が成就し、すべてのクリスチャンは預言者とされたのです。そのときまでは、特別に神の霊を注がれた少数の人だけが、預言者になることができたのですが、このときから、すべてのクリスチャンが預言者とされるようになったのです。

T.預言者の意味 

 今のキリスト教会には、「預言者」を自認して、「神はこう言われる」と宣言して回る人たちが大勢います。ある教会では、預言者の学校を開き、預言の練習をしているということです。大勢の人がその預言といわれるものに惑わされ、さまざまな問題に陥っています。いま預言者を自認する多くの人が言う預言者は、新約聖書が言う預言者とは意味が違います。
 預言者というのはふつう、神様からの直接の啓示を受けて、それを語る人と考えられていますが、実はそれだけではありません。神からの直接の啓示がなくても、普段から神のみ心を正しく学び、人々に教える役割を担っていたのです。
 いまは聖書が完結しています。神が人間に伝えようとされる基本的なことは全て、聖書に記されているということです。ですからいまは、聖書が完結していないときとは違い、新しい啓示や預言の必要性が、小さくなっています。そのため現在は、直接の啓示が頻繁にあるわけではありません。現代の啓示の多くは、聖書をしっかりと学んでいれば必要のないものです。聖書をまだよく知らない人に、特別な助けとして啓示が語られて、預言となることが普通です。従って、聖書の教えに反する預言はあり得ず、聖書が語っていない、新たな重大な出来事についての預言もありません。ところかまわず預言をして歩く人、聖書の原則に反した預言をする人、聖書に書かれていない重大事について預言をする人は、すべて偽の預言者です。彼らの言うことを聞いてはならないのです。

U.神の言葉を語る 

 預言者の絶対の条件は、神の言葉を語るということです。直接の啓示の場合もあれば、常に神のみ心を学んでいて、それを語り、広い意味で神の言葉と認められる場合もあります。日本語聖書の多くが予言という普通の言葉を使わず、預言、つまり神から預かった言葉を語るという意味にしているのは、そういうわけです。(聖書の原語の意味からすると予言が正しい)
 では、預言者は聖書学者とどこが違うのでしょう。旧約の時代にも、聖書をしっかりと勉強して神の言葉を語ることができた聖書学者たちがいました。彼らが預言者とは認められなかったのは、彼らの学びと教えには、聖霊の直接の介入が認められなかったためです。そのために彼らの教えは、あたかも講義のようでした。
 現在でも聖書学者はたくさんいます。聖書を真剣に学んでいる牧師たちも大勢います。彼らが預言者と認められないのは、学ぶときも語るときも聖霊の介入を期待せず、また認めず、人間の知的理解として語るためです。それでは講義と変わりがないのです。
 聖霊のお働きを強調するペンテコステ派の正しい教会では、聖書を学ぶときも、聖霊の助けと導きを祈り求め、期待します。語るときにも、その言葉が本当に生きた言葉となって、聞く人に訴えるように祈り期待します。すると、聖霊が導いてくださって、聖書の教えに深い意味を見出し、必要な人に必要な言葉を必要なときに、聖霊の感動に押し出されて、語ることができるようになります。すると説教も個人伝道も証も、単なる人間の言葉ではなく、預言となるのです。

V.  聖霊の励ましによって神の言葉を語る  

 今の私たちはみな預言者となって、神の言葉を語ることができます。また、語るように期待されて、聖霊の励ましを受けています。全てのクリスチャンが預言者になれるのです。いまやそういう時代になっているのです。しかし現実には、ほんの一握りのクリスチャンが、預言者になっているだけです。どういうことでしょう。
 救いは全ての人に提供されているのに、それを実際に自分のものにするのはわずかだけです。異言も全てのクリスチャンに開かれている賜物です。でも、全てのクリスチャンが異言を語るのではありません。
 私たちは救いをいただきました。ですから、異言で祈ることができるようになりましょう。そして、大胆に預言をすることができるようになりましょう。私たちが神の預言者となって、神が準備してくださった救い、キリストが命を犠牲にして完成してくださった救いを、聖霊の感動を感じながら、大胆に語って行きましょう。
 ただ聖書を読み勉強するだけではなく、聖書を書かせてくださった聖霊の導きと解き明かしを期待し、祈りながら読み、祈りながら学びましょう。聖書の教えや聖書の言葉をだれかに語るとき、ただ語るのではなく、聖霊が正しいときに正しい人に正しく語らせてくださることを期待して、祈りながら語りましょう。すると、聖霊が私たちの心を感動させ、聞く人の必要にあわせて、大胆に語らせてくださるようになります。そのとき、私たちの言葉は預言となるのです。神は全てのクリスチャンが預言者となって、キリストが十字架でを通して完成された福音を、全世界に宣べ伝えることを期待しておられるのです。



posted by まさ at 22:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月31日

You raise me up 日本語歌詞

You raise me up 日本語歌詞

下の歌詞はYou raise me up を日本語で歌えるように翻訳したものです。若い人のためにあえて口語体にしています。英語の意味のすべては表現できていませんが、私たちの教会ではこのように歌っています。ただし、ほとんどの人には音域が高すぎて歌えませんので、会衆が歌うときにはかなり低くして・・・・。どうかこの歌詞で歌ってみてください。

「あなたに頼るときに」

重荷に押しつぶされ 痛みに耐えるときも
心をしずめて ただ あなたを待ち続けよう

おりかえし(4回くり返し)
険しい山に登らせ 
嵐の海に歩ませ
強く変えてくださる
あなたに頼るときに

・・・・・あなたに 頼るときに・・・・

  悲しみ溢れる朝も 涙に暮れる夜も
  ひたすら上を見上げて み国の命を想おう
 








posted by まさ at 07:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

なつく



 筆者が親しくお付き合いをお願いしている吉原宣教師を、フィリピンのお宅に訪ねたところ、一羽のパラキートが飼われていました。日本語ではふつう「インコ」と呼びますが、現地の人々はパラキートと言います。オウムとインコとパラキート、どこがどう違うのか難しいことは知りませんが、要するに小型のオウムです。

 奥様がとても可愛がっているこのパラキートは、現地の人たちが「バナナ・パラキート」と呼ぶ最も小さなオウムの仲間で、普段はバナナだけを食べて生きています。捕え方は簡単で、熟したバナナの実の上に糸くずを丸めて括り付けておけば、すぐに捕まえられます。エサの上をガサゴソと歩き回るうちに、糸に足をからめとられてしまって、あえなく終わりということです。

 誰か現地の人にもらったらしい吉原宣教師のお宅のパラキートは、奥様だけになついていて、その愛情の表現は見ていていじらしくなるほどです。奥様も可愛くてしょうがないといった感じで、これでは、パラキートの寿命が終わったときには大変だろうなと、ひそかに心配するほどです。

 むかし、私たちが飼っていたバナナ・パラキートは、悪賢いやつで、自分で入り口の戸をこじ開けては逃走し、戻ってきてはバナナを食べて、また逃げ出すことをくり返していたものです。意地悪をして籠の中にバナナを置いて戸を閉めておくと、ちゃんと戸を開けて中に入ってバナナを食べ、また出て行く始末でした。私たちが住んでいた標高1500mの地には、自然に熟するバナナはありませんので、空腹になったら帰ってくるよりしようがなかったのです。

 そうこうするうちに、とうとう帰ってこなくなりましたので、寿命になったか、猫にでも食べられたか・・・。とにかく、それで終わったのです。私たちは淡々と、「あれ、このところ帰ってこないね」と言っただけです。

 それにしても、吉原宣教師の奥様に甘えるパラキートの様子は、感動ものです。忙しくすれ違う奥様に声いっぱいに呼びかけ、籠の中でも一番奥様に近いところににじり寄り、羽を小刻みに震わせて気を引こうとします。奥様が指でさすってでもやろうものなら、目を閉じて首をかしげて気持ちよさそうに、まるで眠ったようになるのです。でも、眠ってはいません。この鳥が眠るときは、コウモリのように天井からさかさまにぶら下がるのです。

 私たちはペットを飼います。中には、人間の感情がまったくわからない蛇やトカゲ、イモリやヤモリを飼う人もいますが、これは例外です。私たちの多くは、自分に「なつく」動物をペットに選ぶのです。

 我が家で飼った猫は、どれもこれも不細工な姿の猫でした。たいていは何匹か生まれて、姿かたちのいいのはみな貰われて行ったのに、最後に残った「かわいげのない」奴が、仕方なく引き取られてきたのです。今いる「ぱんきん」も、世話しきれなくなったアメリカ人が残して行ったものですが、もともとは捨て猫で、何とも「へんちくりん」な顔をしています。ところが、飼って1年もすると、たいした可愛がり方もしていないのに、すっかりなついてわがまま顔に振る舞い、ときには思いっきり甘えてきます。そうなるともういけません。可愛いのです。情が移ってしまったのです。不愛想な顔つきも「個人差」に見えてきて、愛情をこめて「みったくない奴だなぁ。お前は・・」と抱き上げることになるのです。「みったくない」とは、筆者が子供のころ北海道で使っていた、「不細工で可愛げがない」という意味の言葉です。

 特別に優雅な姿をしているとか、非常に珍しいとかいうのは例外として、たいていのペットに大切なのは、なつくことです。あるいは、なついてきたと思われることです。池の鯉も鉢の金魚さえも同じです。人間は自分になつくもの、つまり心を交わすことができるものを大切にし、可愛がるのです。神様が人間をお造りになったとき、ご自分の姿に似せて人間をお造りになったという記述の重要さがわかります。

 神様もご自分と心を交わすことができる人間という動物を造り、これを愛でてくださったのです。人間が神様になつき、甘えれば甘えるほど、神様は私たちを愛(いと)おしく思ってくださるのです。三次元の動植物の中では、唯一、人間だけが神様に似せて造られ、神様と心を交わすことができる能力を与えられているのです。犬も猫も高等な動物として、ある程度人間と心を通わせることができます。猿はもっとでしょうか。でも、犬もの猫も猿も神様と心を交わすことができません。祈ることも拝むこともできないのです。神様に似せて造られていないためも、神様にはなつかないのです。

 人間は神様に似せて造られ、神様との交わりを楽しみ喜ぶように、初めからプログラムされています。そしてその中で、神様に造られ愛でていただいていることを感謝し、賛美をするのです。人間は単に神様を賛美するだけのために造られた機械ではなく、神様の愛と恵みを交わりの中に感じて、自由意思で神様を賛美します。そこが大切なのです。
 
 創世記の天地創造の物語の中で、「見よ、それははなはだよかった」とくりかえし語られた自然の中に、人間は造られ、生かされ、恵みをたくさん受けながら生活していたのです。それが人間本来のあり方でした。そのように暮らすのが、人間にとって最もよいことであり、神様もお喜びになったのです。

 聖書の中に記録されている様々な出来事も、多くの教えも、数々の戒めも、この素晴らしい本来のあり方を失ってしまった人間が、それを取り戻すにはどうしたら良いかということを教えるために、書き記されているのです。それらの中で最も大切なことは、人間がどのように努力したら、取り戻すことができるかということではなく、人間をお造りくださった神様が、人間に取り戻させるために、何をしてくださったかということです。それはとてもむずかしいこと、非常に困難なことでした。でも、人間を愛でておられる神様は、すべてを完全にやってくださったのです。

 ですから、いま人間にできることは何もありません。することがないのです。ただ、すべてを準備してくださった神様に信頼するだけです。それを教えるために、聖書は書かれたのです。人間は、「ありがとうございます」と感謝をして、「神様は素晴らしいお方ですね」と語りかけ、ほめ称えていくだけです。

 吉原宣教師の奥様が近くを通ろうものなら、思いっきり声を張り上げて気を引こうとするパラキートのように、神様に向かって声をあげ、感謝し、賛美し、お願いし、おねだりをしながら生きていくことです。神様も、ご自分になつくものをさらに愛でてくださるのです。





posted by まさ at 13:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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