2017年12月25日

自分らしく生きる 人として生きる



 ここしばらく、「自分らしく生きる」という言い方が、良く使われています。なるほど、いい言葉だなあと思う反面、なにか割り切れない、納得できないところがあるのも事実です。
自分らしく生きると言って、わがまま勝手に、人としての生き方に反することをしている人も、たくさん見かけるからです。

T. 人間として生きる  

自分らしく生きることよりも、人間として生きることが、もっと基本的で、大切なこととして守られなければなりません。わがままで、自分中心で、人の迷惑も顧みない人たちが、「自分らしく」と叫んでいるのに、耳を傾ける必要はありません。

 目に見えず、気高く、厳かで、恵み深く、清らかなお方を感じない人たち、あるいは感じても気に留めない人たちは、自分らしく生きることにこだわります。クリスチャンは、日本人の多くが感じている目に見えず、気高く、恵みに富むお方が、実は聖書が教えている天地の創造者であることを、知っています。そしてこのお方が、人間をお造りになったことも、よく理解しています。人間を造ってくださったお方のみ心に従って、あるいは造られた目的に従って生きることが、人間としての生き方であると、納得しています。そして、造られた目的に従って、人間らしく生きるときに、人間は最も幸せになれるのだということも、よくわかっています。
 
人間が造られた目的は一つです。それは神の栄光を現すことです。神の栄光を現すことは、二つの分野に分けられます。一つは神との関係です。それはふつう神を愛するという言葉で表現されていますが、日本語としてはむしろ、神を敬愛する、慕う、信頼するというような言葉で表すべきかと思われます。造り主であるお方を認めて、感謝と喜びをもって、敬い、称え、感謝し、信頼するのです。

 次は、造られた人間同士が愛し合うことです。互いに相手の幸せを願い、相手の幸せを喜び、相手の幸せのために生きることです。平和を望んで作り出し、難儀をしている人に手を差し伸べることです。これこそが、人間を愛しておられる創造者が、人間にお望みになることです。人間をご自分に似せてお造りになった方は、人間と心の交わりを持つことと、人間が愛し合いながら生きる姿をお喜びになるのです。

 日本人はこの創造者についてこそよく知りませんが、心に残っていた神に似せて作られた姿、すなわち人間の本能によって、このお方のことを感じて、大切にしているのです。日本人が世界の民族の中でも特異なのは、その本能の強さです。だから、平均的日本人は「神なんていない」と言いながら、自分の心にある信仰心を大切にし、また人を尊んで平和に生きようとするのです。人の迷惑にならないように心掛け、人の益になるように願いながら生きているのです。

U. 自分らしく生きる 

 このような、日本人らしい生き方をしようとする人、人間として人間らしく生きようとする人に、自分らしく生きるという言い方はなじみません。自分らしく生きることの多くが、人を人とも思わない、勝手で、人を傷つけてもなんとも思わない生き方に通じるからです。

とはいえ、自分らしく生きることはまた、非常に大切です。神に造られた人間としての生き方をきちっと守ったうえで、自分らしく生きるのです。すべての人間は一人ひとりユニークで、同じ人は二人といません。それぞれが異なっていて、様々な特徴を備えています。人間をお造りになった方は、人間が大きな社会の中で機械の部品のように同じにではなく、それぞれの特徴に応じて、その特徴を生かして生きる、異なったものとしてお造りになったのです。

 ただその場合、あくまでも、造り主の目的に沿って、造り主を敬愛し、人を愛するという生き方の中で、それぞれの特徴を最大限に生かすのです。どれほど自分の特徴を生かしても、創造者であるお方の栄光を汚すような生き方であってはならないのです。人の幸せを損なう生き方ではだめなのです。

最近は、カミングアウトなどという言い方で、男が女のようにふるまったり、女が男のように生活したりすることが、社会に受け入れられるようになってきました。同性同士の結婚が認められる国も増えてきました。性に関する障害があってそのようになる場合は、その人の人格を認めて、幸せに生きられるようにしてあげるのは当然です。しかし、単なる嗜好の問題として、男女の違いを簡単に消してしまおうとか、変えてみようとするのは、人間に対する造り主の基本的なご計画に反することです。泥棒をしないではおれない障害を抱えた人でも、差別されずに生きていける社会を作ることは大切です。しかし泥棒を容認する社会を造ってはなりません。ましてや障害でもないのに、泥棒の自己弁護をすることは許されません。

 私たちクリスチャンは、造り主に似せて作られたという原則を大切にして、人間の道を踏み外さず、そして自分の特徴を生かして生きていきましょう。





   
posted by まさ at 22:06| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月17日

人の道を歩む


             マタイ22:36〜40

  猫には猫の生き方があり、犬には犬の営みがあります。猫が山羊のように生きることはできませんし、犬が馬のように生きることもできません。それぞれの生き方は、神がお定めになったのです。同じように、人には人の生き方があります。人の道は神がお定めになったものであり、その道に従って歩む限り、人は幸いに人生を送ることができるのです。人の不幸は、神のお定めになった人の道から、外れてしまったことによるのです。人の道に戻ることが、この上なく大切です。

 神がお定めになった道は決して狭いものではなく、広い道です。かなりの選択肢があり、多くの変化に満ちているものです。しかし、そこには基本的な二つの定めがありました。それは神を敬って生きることと、人を愛しながら生きることです。

T. 神を敬う

 人の道の第一は、自分をお造りになった神との関係を正しく保つことです。それを聖書は、「神を愛する」と表現しています。日本語では、むしろ「敬う」とか、「敬愛する」とか、「お慕いする」とすべきかも知れませんが、ひとつの言葉では言い表すことができない、深い感情とその感情に根ざした生き方をすることです。

 人間を造り、生かしてくださっている神を敬い、畏れ、崇め、感謝し、お仕えし、信頼し、甘えることが、人間にとってもっとも大切なことです。自分がこのような存在として造られ、命を与えられ、生かしていただいていること。美しい自然の中に置かれ、必要なものを与えられていることを感謝し、そのように配慮してくださった神を畏れ敬い、そしてそのやさしさに甘えて生きることです。

 私たちの神に対する感覚は、人間の罪による堕落のために、かなり鈍くなり、薄れてあいまいになっていますが、幸いにも、私たちの神に対する感覚と知識は、イエス・キリストの救いを受け、神との関係を修復されつつあるいま、だいぶ回復しています。しかしまだまだ不充分です。毎日の生活の中で、もっともっと神を感じるような生き方をしなければなりません。それは具体的に可能なのです。神が道を備えてくださったからです。

 いつも神を想い、感謝を捧げながら生活しましょう。私たちの中にある、神に対する想いをもっと強め、高め、深めるのです。すべてのこと一つ一つの背後に神のみ手を認め、感謝し、祈り、賛美しながら生きることです。美しい自然を美しいと喜ぶだけではなく、その自然を与えてくださった神に感謝しましょう。美しいものを美しいと感じる心を与えてくださったことにも、深く感謝しましょう。あらゆる出来事の中に、神の配慮を認め、感謝を強くしましょう。

 そうすることによって、私たちの神に対する感覚は鋭くなり、神が明らかに感じられるようになります。すると、私たちの信仰に現実感がまし、喜びと感動と平安が増し加わるのです。私たちは神に愛され守られているという事実を、言葉や教えとして知るだけでなく、本当に実感できるようになるのです。

U. 人を愛する 

 人の道の第二は、人間が互いに愛し合って生きることです。互いに隣人の幸せを願い、そのために努力することです。互いに助け合い、協力し合って暮らすことです。神に似せて造られた人間は、本来、互いに愛し合いながら生きるようにされていたのです。和の中に喜びを持ち、幸せを感じられるようにされていたのです。人間が愛し合いながら幸せに生きる姿を、神もまたとてもお喜びになるのです。

 ところが、罪によって堕落した人間が作り出した社会は、不和の世界になってしまったのです。隣人を愛するよりも、自分を愛することを大切にしてしまったために、人間の世界は乱され、混乱と錯乱の中に投げ入れられてしまったのです。

 幸いに私たちはいま、キリストの救いに与り、大きな神の愛で愛されていることを知り、愛することを学びなおしました。はじめから、愛し合うように作られていることを教えられ、愛し合って生きることがどんなに幸いかを、学ばされています。そして神の愛を実感するごとに、自分たちの愛が強められ、愛することができるようにされています。愛を、もっともっと実践していきましょう。毎日の暮らしの中で、努力しながらこれを生かして生きるのです。そうすると、もともと神に似せて、愛し合うように造られている私たちは、もっともっと愛し合うことができるようになります。互いに愛し合える世界は幸せな世界です。

 愛は使えば使うほど増えるものです。愛すれば愛するほど愛は大きくなります。愛せないものを愛することによって、愛はますます強くなり、さらに愛せないものをも愛することができるようになるのです。人間の幸せのためにご自分を犠牲にされたキリストの命をいただき、そのキリストの姿を模範に生きていきましょう。今や私たちの愛は、キリストの愛によって再び生かされ強められ、愛し合うことができるようにされているのです。

 私たちは人として生まれて来ました。人として生きていきましょう。自分らしく生きるということが、しばしば自分勝手な生き方につながりますが、人間としての生き方をすることのほうがもっと大切なのです。
posted by まさ at 17:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月14日

すべての面で幸いを得る



愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。          Vヨハネ1:2

 時計には時計がつくられた目的があり、猫には猫が生かされている生き方があります。当然、神に似せて造られた人間には、人間として生きる目的があります。時計を磁石の代わりにしてはなりませんし、猫に猟犬の真似をさせてもなりません。人間も、他の動物のように生きてはならず、人間らしく生きなければなりません。人間らしく生きることによって、はじめて、人間は人間としての幸せを得ることが出来るのです。

T. 神の目的  

天地をお造りになり、ご自分に似せて人間をお造りになった神の目的は、はかり知れません。それを突き詰めて知ろうとすることなど、思い上がりであり、僭越きわまりありません。とはいえ、聖書の記述により、大まかな、基本的なことは想像できます。
 
天地の創造は、神の創造性の表現であり、人間の創造は神の愛の表現であるといえます。神はご自分に似せて人間を造り、神と交わり、神の愛を感じ、神を愛することが出来るようにしてくださいました。神に似せて造られてはいない他の動物には、そのような宗教的本能は与えられていません。人間の生きる目的は、神がお造りになった天地と自然に包まれ、その恵みを受けながら、神に感謝と敬愛を捧げて生きることでした。また、同時に、神に愛されている人間同士が仲睦まじく生きて、神に喜んでいただくことです。神は、人間が幸せに生きることをこの上なく喜んでくださるのです。

 ところがこの神の喜びは、人間の不従順の罪によって妨げられてしまいました。人間を包んでいた自然は、人間の罪のために破壊され、人間にとって脅威となることが多くなってしまいました。土地は枯れて産物も不充分になり、疫病がはやり、虫や獣も害を与えることが多くなりました。人間の心も捻じ曲げられ、互いに嫌い、憎み、傷つけ合うようになってしまったのです。最大の問題は、聖い神との交わりが途絶え、豊かな愛を感じることも、敬愛の気持ちを捧げることも難しくなってしまったことです。その結果、人間の中に溢れていた神の命は枯渇して、死を待つ運命に突き落とされたのです。人間は滅びに入ってしまいました。

 今の私たちの世界は、滅びの世界、悪魔の支配に置かれた世界なのです。そこで人間は苦しみながら生きるようになったのです。これが創世記の3章以降に記されている大筋です。

U. 神の救いの準備 

 人間は罪のために、滅びの中に入れられてしまいました。だから、苦痛の中に生きているのです。(エペソ2:1〜3) しかし、神はその人間を滅びの状態に捨て置かず、何とかしてこれを救い出そうとしてくださいました。まず、聖いご自分から遠ざけ、聖さに打たれて死ぬことが無いようにしてくださった上、さらに自然の破壊にも、人間の心の破壊にも限界を定めて、人間が生き続けるようにしてくださいました。そのために、人間は苦しみながらも、いろいろなところに神の祝福を味わいながら、生き続けているのです。

 神は罪を犯した人間への愛を絶やさず、罪の力と悪魔の支配、永遠の滅びから救い出すための働きを、推し進めてくださいました。神は悪魔の支配の中でも増え続けた全人類の救いのために、イスラエルという一つの民族を選び出し、彼らの中に救い主を誕生させて救いの働きを完成させ、全世界に救いを及ぼそうとなさいました。

 神は、罪と悪魔の力に支配され滅びに向かっていた人類に、イスラエルという民族を通して救いをもたらそうとなさったのです。そのためにイスラエル民族は神の特別の守りと、教導を受けたのです。そのことを記したのが旧約聖書でした。さらに、神がイスラエル民族を用いて完遂して下さった、救いの働きを説明し、それを全人類に及ぼすための計画を教えるために、新約聖書が与えられたのです。旧新約聖書全体は、人間の基本的生き方を教えるためのものではありません。人間の基本的生き方は、神に似せて造られたとき、本能として人間の性質に刻み込まれ、教えられているのです。聖書は救いを教えるためのものですが、その中に、罪のために分からなくなっている人間の基本的生き方も、改めて教えられているわけです。

 V. 神の救いの実現 

 神の救いの準備と実現の具体的内容は、ただ新約聖書によってだけ知ることが出来ます。神に似せて造られた人間の本性、すなわちパウロが言う「心に記された律法」(ロマ2:15)は、人間が神に与えられた環境の中で生きるための基本的な教えを、本能として知り、また実行できるように与えられています。しかし聖書、すなわち文字で書かれた律法は、滅びに陥った人間が救われるための教えが記されているのです。

 救い主、すなわちキリストを通して完成された神の救いは、神ご自身の犠牲、神の痛みを通して遂行されたものです。人間はその高さも深さも計り知ることはできません。聖書の教えによって、少しだけ理解することはできますが、理解できなければ救われないのではありません。救いは100パーセント信仰によるのです。すなわち、信頼することによって与えられるのです。救いを計画し、それを遂行してくださった神を信頼するならば、神はその信頼を喜び、キリストを通して完成して下さった救いを、私たちに与えてくださるのです。

 その救いは、独り子キリストの死というあまりにも尊い犠牲であるために、何をもっても買い取ることが出来るものではありません。高価すぎて買い取るのは不可能なのです。そのために、ただ、神に信頼することだけで与えられるのです。与えられたなら、ただただ感謝を捧げること以外にはありません。神は信頼されることを何よりもお喜びになるのです。

 信頼は知識ではありません。本能的感覚です。赤ちゃんは何を知らなくても、母親に信頼します。信頼するから守られ、愛され、育てられるのです。私たちも、神を感じるように造られています。だから、心で感じる神を信頼するだけでいいのです。

 ただ、罪のために神から隔離されていた私たちは、迷子になった子供のように、母親がどこにいるのか、たくさんいる女性たちの中で、どれが母親なのか分からないような状態にいます。それで、母親を特定するために、ただ「お母さ〜ん」と呼ぶだけではなく、自分の名前を入れて「○○のお母さ〜ん」叫ぶように、私たちもいま、「神さま」とお呼びするだけではなく、「天地を造ってくださった神さま」と、特定してお呼びするのです。救いはキリストを通してすでに完成されています。その救いは、神を信頼するだけで、その信頼のゆえに、無代価で与えられるのです。ただ、「天地をお造りになった神様」とお呼びして、信頼すればいいのです。

 私たち人間には、神様を感じ、信頼することが出来る、霊的な性質が与えられています。その性質をもって、私たちを愛し、私たちを救い、私たちをあらゆる良いもので祝福しようとしておられる、この神様に信頼して行きましょう。そして神との交わりを回復し、自然を喜び、人と人との繋がりを楽しみ、人間としての本来の目的にあった生き方をして、神にも喜んでいただきましょう。



posted by まさ at 10:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする