2010年12月21日

クリスマス?


クリスマス?


 科学が飛躍的に進歩しています。少し前には思いも及ばなかったものが発見され、作り出され、理解されるようになっています。愚かな人は、この科学の進歩を見てばら色の未来を想像します。考えの浅い人は科学の発展を誇り、人間の能力を謳い上げます。しかし賢い人は、どんなに科学が進んだとしても、大海の一滴をくみ上げているに過ぎず、何の保証ももたらさないことを知っています。

 ただ、最近の科学の進歩は、聖書の理解にも新しい光を投げかけるようになっています。以前は読み取ることができなかった聖書の教えが、少しばかり見えるようになってきたのです。そしてそれが出来るようになると、ますます人間の小ささがわかるのです。

 聖書をまったく知らない人は、クリスマスはイエス・キリストという偉大な宗教家の誕生日くらいに考えています。聖書を少し読んでいる人は、クリスマスとは、神が人の姿をとってこの世に来てくださったことを、記念するものであると知っています。あるいは、イエスと名づけられた田舎の大工が、じつはキリストとして、すなわち救い主として生まれてくださったのだという話も、覚えているかもしれません。しかしクリスマスはもっともっと大きな、神秘的な、人間の理解と想像を遥かに超えた出来事なのです。

 キリストはこの世に生まれてこられる前から、神として存在しておられました。その神としての存在を、聖書は「言」あるいは「光」と表現しています。じつは、生まれる前のキリストの姿を表現できる言葉が存在しないのです。それで、その姿をほんのわずかでも表すことができると思われた、「言」や「光」という表現が選ばれただけなのです。神という存在を充分に表現できる言葉などありません。旧約聖書で神が自己紹介をしてくださったときの言葉は、「私はある」というものです。つまり、私は存在するもの、存在の根源、あらゆる存在の元であるという意味です。でも、それはあまりにも人間の理解を超えたものであり、一般的な呼び名にはなりませんでした。

 聖書の最初の一節、「神は始めに天と地を創造された」という書き出しは、天と地の始めの謂れを語るものではなく、神の自己紹介です。神とは何か、神とは誰かというものがまったく理解できず、何でも少しばかり強いもの、少しばかり不思議な力を持っているものを、神として拝んでいた人々に、「私こそ本当の神である」、「本当の神とは、天と地を造ったものである」、「わたしこそ、あなたたちの拝むにふさわしいものである」と、自己紹介をしてくださったのです。


 天地創造の神は、当然、聖書が書かれた当時の人々の宇宙観、世界観で理解されました。当時の人々には、地球という概念がありませんでした。ちょっとばかり山や川があるけれども、平たい地面が無限に大きく広がっていると考えられていました。天体などは、単に天井くらいに考えられていたのです。ところが、近代になって理解が進むと、天とは限りなく広いもので、それに比べると地は米粒ほどにもならないことも分かってきました。宇宙の広さを推し計ろうとして、相対性理論などというものを考え出した人もいました。

 ところが最近に至ると、人間の目、あるいは科学的観察で捉えることができる宇宙は、宇宙の存在のわずか4%にも満たないことが分かってきました。宇宙には、人間の観察の対象にはならない、「暗黒物質」と呼ばれる存在が96%以上を占めるというのです。これはとりあえず「物質」と呼ばれていますが、物質であるかどうかさえ分からないのです。まさに、「ある」と観察できないものがあるのです。

 さらにその上、私たちが感覚として捉えることができる、この三次元の世界を超越した、異なる次元があるということです。空間的には、いま私たちが生きているこの同じ場所に、たとえば五次元六次元の世界があり、その中に私たちの世界と良く似た、三次元の世界が存在し、私たちに似た生物が生きている可能性さえあるというのです。こうなると、素人の私たちには空想の世界としか思えないほどですが、物理学の先端にいる人たちは、今このようなことを真剣に考え、それを何とか実験的に証明しようと躍起になっているのです。
 
 私たちの神は、これらの未知の世界を超越し、支配しておられる方です。暗黒物質も造り、多くの異次元の世界も造り、それらをたばねておられる方なのです。聖書の中には、表現こそ違いますが、異次元の世界を想定させるものがたくさん出てきます。善人が一時的に行く死後の世界。悪人が一時的に行く死後の世界。復活した人たちが引き上げられる天の世界。それとは別の天と呼ばれる世界。み使いたちが普段生活している世界。悪霊たちがふつうに活動している世界。悪霊たちが裁かれて一時的に陥る世界、最終的に裁かれて閉じ込められる世界。その他にも、まだまだあります。今の私たちには知りようがない世界です。ですからいま挙げたものも、あるいは重複しているかもしれません。でも、とにかく、神はそれらの異次元をすべて支配しておられ、それらの世界を超越しておられるのです。そして、私たちの住むこの三次元の世界も治めておられるのです。神はあまりにも大きな、超越者なのです。

 私たちの神は、すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内におられる神です。(エペソ4:6) 神が存在されない場所などはないのです。たとえば、超新星が爆発した後に残ると言われている、ブラックホールの核に当たる部分はとても小さいのですが、その質量は想像を絶するほど大きく、太陽の数百億倍、あるいは数千億倍にも達するものが知られています。あまり重いために、光さえその重力に吸い寄せられ、閉じ込められてしまうのですが、それはその部分の質量が非常に高く超過密だからです。しかし、神は密度にも重力にも支配されない方です。ブラックホールの中心を自由に行き来される方なのです。

 そしてすべてのものは、この神の内に存在を許されているのです。私たちはまさに、神の中に生き、動き、活動しているのです。(使徒17:28) 仏教徒の中には、宇宙全体を生命体と捉える人たちもいるようですが、すべての存在が命そのものである神のうちにあって、存在させられ、生かされているのですから、まさに宇宙は神の命の中にあり、宇宙全体がひとつの生命体と考えられる一面もあるのです。しかしこの生命体は、単なる原理とか原則あるいは「法」というようなものではなく、感情をもち、知識を持ち、意思を持った命なのです。ありとあらゆる命は、この命から発しているのです。

 科学が発展してくると、私たちの神の理解もまた増してきます。そのような神が、人間を救うために、人間の姿をとって人間の世界に下りてきてくださり、人間として生き、人間として苦しみ、人間の罪を背負って死んでくださったのです。まさに不可思議。ミステリーで、私たちの筆舌に尽くせないできごと。それがクリスマスです。

 無限の神が、自らお造りになった有限の世界に下りてきてくださったのです。栄光も力も権威も横において、痛み苦しみ疲れ病む人間となって、人間と共に生き、人間を救おうとしてくださったのです。とは言え、この人となった神は、クリスマスのときに初めて人の住むこの世界に来てくださったのではありません。聖書は、この、言葉であり、光であり、命である神が、もとからこの世におられたとはっきりと記しています。ただ、人間がそれに気付かなかっただけであると教えているのです。(ヨハネ1:10)

 天地の造り主である神は、その栄光と力と権威をもって人間の住む世界をはじめ、三次元の世界のすべてだけではなく、存在するあらゆる次元のすべてに存在し続けておられたのです。

 その私たちの理解も想像も絶する、大きな神が、私たち小さな人間を救うために、小さな人間の姿をとって、人間に理解できる姿で人間を訪れてくださったのが、クリスマスです。感謝と怖れをもってクリスマスを迎えたいものです。

 そして、人の救いのためにそこまで自分を低くし、卑しくし、無にしてくださった神。ののしられ、辱められ、痛めつけられても、人の救いのために忍んでくださった神を思い、私たちもまた、人のために自ら進んで犠牲を負うことが出来るものになりたいと、静かに祈るクリスマスにしようではありませんか。

 











posted by まさ at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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