2011年05月31日

あなたのタラントを用いなさい

 
     マタイ25:14〜30

 私たちは、芸能人のことをタレントと呼んでいますが、その語源はこの物語にあります。聖書は、このタラントと賜物を同一ものとして語っています。クリスチャンの中には、タラントを生まれつきの能力や、習得した能力とは違うと主張する人たちもいますが、聖書はむしろ、そのような能力も、聖霊によって特別に与えられた能力も含めて、広い意味で、神様から与えられた賜物、すなわち能力、あるいは資質として語っています。


T. それぞれに異なった賜物    

 人はそれぞれ異なった能力を持っています。それを不公平だと感じる人もいますが、それは人間が、罪のために賜物の用い方を誤って起った問題です。いま人々は、自分の能力を自分の利益のために、自分の望みや野望のために用いています。よほど高潔な理念を持った人でなければ、自分の能力をまったく公共の益のために使おうなどと考えません。それが、あらゆる問題の元になっています。また、たとえ公共の益と考えて作り上げたものでさえ、たちまち自己本位の人々の餌食となり、世界は急速に破滅に向かって転げ落ちています。

 賜物とは本来、互いに益になるように、協力し合い、助け合うために与えられたものです。能力のある者は、自分の能力が、弱いものや小さなものの益のために使われることを、喜んだのです。小さなものや能力のないものの存在は、能力のあるものや強いものを生かすチャンスを作っていたのです。弱いものがあって、初めて強いものがあるからです。罪によって堕落する前の人間は、そのように生きていくはずだったのです。今、救いにあずかった私たちは、自分の能力を誇ることなく、人を生かすために用いて行きたいものです。 


U. 用いるために与えられた賜物  

 賜物は展示物としてではなく、用いるために与えられたものです。キリストの喩えでは、それが非常に強調されています。一方、どれだけ儲けたかということには、ほとんど関心が払われていません、同じ割合の儲けと、同じほめ言葉が与えられているだけです。それは、とにかく用いることが大切なのだと強調されているからです。また、用いるならば、必ず良い結果が出ていることにも注目しましょう。損をしてタラントを失った者はいないのです。

 私たちは自分に与えられた能力を、展示物のように見せびらかし、ひけらかすことを止めて、神様の栄光のために用いましょう。立派な大学に入るのも、立派な仕事を成し遂げるのも、自慢するためではなく、人の役に立てる者になるためです。神の栄光のために働く、人の役に立つために賜物を用いるということにも、色々な方法があります。医者になるのも、教師になるのも、社会事業を行なうのも素晴らしいことです。ボランティアで、助けを必要としている人のお役に立つことも、素晴らしいものです。しかし、パウロは一切のものを横に置いて、伝道の働きに自分を投入しました。それが、もっとも神様の栄光のためになり、人々の役に立つと考えたからです。


V. 賜物が用いられなかった結果
 
 せっかく賜物が与えられていたのに、それを用いなかった者は、厳しい叱責を受けています。どのような形であれ、賜物は用いられなければならないのです。さらに、用いられなかった賜物は取り上げられてしまっています。能力は用いなければ、使えなくなります。運動しなければ筋肉は衰えます。使わない言葉は忘れます。消極的な人は、行動を恐れ、賜物を使うのに躊躇してしまうため、自分に賜物が与えられていることさえ、気づかずに終わってしまいます。

 そして、さらに厳しい警告は、賜物を用いなかった者は、役に立たない僕として裁かれるというものです。この裁きがどのような裁きであるか、定かではありませんが、厳粛に受け止めて、そのような事態に陥らないように、最善を尽くさなければなりません。









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2011年05月30日

天に宝を

 
     ルカ12:32−34

 四つの福音書には同じ物語がくり返し語られています。ところが、よく読んでみると、少しずつ内容や書き方が違います。それぞれの著者が、異なった観点と強調点を持ちながら、記したためです。天に宝を蓄える話も、ルカはマタイとは異なったところを強調しています。(参照:マタイ6:19−21)

1 神を父とした小さな群れ  

 イエス様は、私たちが誰であるかということから、話をお始めになりました。私たちはまず、小さな群れです。救いを受けたひとりひとりの個人ではなく、群れ、一塊の人々、共同体であることが強調されています。イエス様はひとりひとりが救われて、天国に行ければそれでよいとはお考えになりませんでした。救われた人々を集めて、ひとつの群れとなさったのです。

 クリスチャンは一人で生きるべきではなく、群れとして、互いに愛し合い助け合って生きるべきものなのです。その群れ、すなわち教会を作ることが、イエス様の使命だったのです。イエス様の救いの働きはこの教会を通して、伝えられて行くからです。小さな群れでしたが、聖霊が宿り、黄泉の力も打ち勝つことが出来ない群れなのです。(参照:マタイ16:18)

 そしてその群れは、神を父としていす。生まれながらに怒りの子、神の敵であった私たちは、ただただ神の一方的な愛と憐れみによって、養子縁組をさせられ、神の子供となったのです。(参照:エペソ2:1−5、ローマ8:14−16)


2 持ち物を売って施しなさい  

 イエス様は、私たちが何をすべきかをお教えになりました。持ち物を売って施しなさいとは、豊かな者は施しなさいというのでも、余裕があったら施しなさいというのでもなく、貧しい中で、蓄えもなく余分なものを持たない生活であっても、施しなさいということです。共に痛みを負い合いなさいということです。

 それが自分のために古くならない財布を持つことであり、天に宝を積み上げることだとおっしゃるのです。またこれは、単に所有物をもって施すというだけに止まらず、小さな者たちのために病院をおとずれ、刑務所を訪ねるというような配慮、時間と労力の施しも含まれます。(参照:マタイ25:32−46)

クリスチャン同志は、兄弟愛によって助け合います。共に同じキリストの救いにあずかり、同じキリストの命に生かされ、永遠の住まいを分け合う者として、互いを大切にします。しかしその助け合いの心は、小さな群れの中だけに止まるものではありません。本当の愛は多くの隔ての壁を打ち破ります。そして具体的な行為を生み出すのです。


3 神の国を与えられるのだから  

 イエス様はさらに、なぜ施しをするのかということについて教え、私たちの基本的人生観を、確認するように仕向けておられます。私たちには神の国が与えられるのです。これは永遠の命を持つということです。私たちの人生はこの世の70年80年だけで終わるものではなく、永遠に生きるのです。この世だけを豊かに贅沢に生きたとしてもその後の永遠を、貧しく惨めに生きたのでは、実にもったいないことです。私たちは永遠に生きるのですから、永遠に生きる準備をするのです。

 貧しいものに施すのは、天に宝を積み上げること、天に貯金をすることなのです。そこにはインフレも、銀行の倒産もありません。この世界で貯めた財産は天に持っていくことは出来ません。しかしこの世界の貧しい者、小さな者に施した分は、天に蓄えられるのです。そして私たちの財産のあるところに、私たちの心もあるのです。わたしたちの、この世の財産、金や物質に捕らえられない生活は、この世に心を置かないことに始まるのです。たとえ、天に宝を積み上げるということが文字通りの事実ではなく、比喩であったとしても、神がすべてを公平に報いてくださるという、事実があるのです。

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2011年05月29日

神のみ思いと人の思い

    
     神のみ思いと人の思い
        ヨナ書

 ヨナ書は、私が特に好きな書物です。この書には昔からいろいろな理解の仕方があって、寓話的に解釈すべきだとか、比喩的に読むべきだとか言われてきました。でもやはり、事実として理解するのがもっとも妥当であり、そう理解してこそ、本当の意味がわかってきます。

 ヨナは紀元前760年前後に、北朝イスラエルで活躍した人物で、イスラエル王国の領土拡張を預言した強烈な愛国的預言者でした。(U列王記14:25)そのヨナが、イスラエルの宿敵であるアッシリアの首都ニネベへ出向き、彼らの悪のために神の裁きが下ると預言するようにと命じられたのですが、彼はそれを嫌って、ニネベとは反対の方向のタルシシへ逃れようとするのです。

 タルシシは現在のスペインと考えられ、距離にして4000kmです。ヨナ書は神様に対するひとりの人間の徹底した反抗の書物です。そのひとりの人間の反抗がどのようにして崩されたかという、感動の短編物語です。そのクライマックスで突然幕を閉じる見事さに、文学性の高さが現れています。
 

T 神のみ思い
 
 ヨナ書が描き出しているのは、人種、民族、敵味方を超えた普遍的愛、普遍的憐れみに富んでおられる神です。アッシリア帝国は、すでに長い間神の民イスラエルに敵対して、たびたびイスラエルを侵略しては暴虐の限りを尽くしていました。ヨナより少し前の預言者、エリヤやエリシャもアッシリアの侵攻を目にして預言活動をしていました。神の祝福を全人類に及ぼすために選ばれたイスラエルから見るならば、まさに憎き敵であり、神の敵と思われる存在でした。

 ところが、神はこのアッシリアの首都ニネベを救おうとなさったのです。その悪があまりにもひどいために、これを滅ぼさなければならないが、その前に、救いの機会を与えようとなさったのです。神の愛と憐れみは、イスラエル民族が理解したような、民族主義に捕らわれたせせこましいものではなく、民族、人種、文化、言語、国境を越えた普遍的なものなのです。イスラエル民族の選びでさえも、イスラエル民族を祝福するのが最終目的ではなく、イスラエル民族を通してすべての民族が祝福を受けるためだったのです。

 ともすれば、自分たちが選ばれたという事実に酔いしれて、あるいはそれに安んじて、他民族を軽んじ、さげすみ、無視し、自分たちの使命を忘れてしまいがちなイスラエルに、神様はヨナ書のメッセージをお送りになったのです。


U 人の思い

 愛国的預言者ヨナはまた、非常に偉大な人物でした。ヨナは最初から、神の目的はニネベを滅ぼすことではなく、救うことであると喝破していたのです。ですから、それを嫌って反抗し、タルシシへ逃げようとしたのです。強力な敵国の首都ニネベが怖かったからでも、仕事がつらかったからでもありません。ヨナは愛国者として、ニネベの滅びを見たかったのです。しかしそれを見ることはできないと、初めから知っていたのです。

 ヨナは、神がおっしゃることの裏、神のみ心の真意を理解したのです。、しかも、当時の人々の常識からはまったく理解できないような、神の本当の思いを正確に推測できた偉大な人物でした。

 ところがヨナは、徹底して自己主張をしました。自分の主義主張、考え、立場を、命をかけて訴えたのです。ですからヨナの行動は逃避ではなく、抗議行動、抗議のデモンストレーションだったのです。ここまで神を理解し、ここまで神と争ったヨナという人物の偉大さが良くわかります。ヨナは自分が神に勝てるなどとは毛頭考えていませんでした。ただ憤慨やるかたなく、神に訴えたのです。神はニネベを滅ぼすことはなさらないと知っていながら、「さあ早く滅ぼしてください」と、町を見下ろせる丘の上に登って、訴えているのです。

 しかしヨナの反抗は、思いもよらない神の問いかけで、完全に挫折をしてしまいます。多分、ヨナは神が正しいことは初めから知っていたに違いありません。しかし、自分の気持ちが納得しなかったのです。それを神は、最後に、見事に納得させてくださったのです。

 私たちクリスチャンにも、理解はしているのだけれども、どうしても納得できないと、神に反抗したくなるように時があります。ヨナのように大胆な抗議行動を起こしたくなります。それも良いでしょう。ただしそれならば、神様の深い御心ヨナのように良く理解する人間になることが、先決といえるでしょう。








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