2011年07月31日

赦されている事実を実感して生きる


     マタイ18 : 21−35

 人を赦せないのは悲しいことです。いつも憤り、憤慨し、嘆き、物事を暗く惨めに見、なんでも消極的に考えてしまいます。反対に、人を赦せると心が広く豊になります。明るく積極的に前向きに考えることが出来、食べ物まで美味しくなります。クリスチャンは赦すことが出来る人です。イエス様の「悪い僕」のたとえから学びましょう。


T. 赦されている事実  

 悪い僕は、1万タラントの借金を赦されていました。この金額は、ふつうの人間が一生かかっても儲けることが出来ない額です。現在の日本の金になおすと、6千億円ほどにもなるでしょうか。それほど大きな借金が、ただ王の憐れみによって赦されたのです。

 クリスチャンも赦されている人間です。クリスチャンが赦されているのは罪とその結果の刑罰です。クリスチャンは、自分では払いきれない大きな負債である罪を、神によって赦されているのです。本来ならば、罪の刑罰を負って永遠の滅びに入らなければならなかった私たちですが、神の赦しを受けて、永遠の命をいただいたのです。神の赦しはキリストが十字架で身代わりに死んで下さったという、大きな犠牲、代価、神の痛みによって実現しました。安っぽい赦しではなく、命のかかった赦しです。神は、ただただ私たちを憐れんで赦してくださったのです。


U. 実感されていない事実  

 ところが、イエス様のたとえでは、悪い僕は、僅か100デナリの金を貸していた友人を赦すことが出来ませんでした。100デナリは100日分の日給に相当します。1万タラントは600万日分です。それほど大きな額を赦された男が、どうして僅かな額を赦すことができなかったのでしょう。それは、赦されたという事実を、実感していなかったということに尽きるでしょう。赦されたという事実に感動し、赦してくださった方に感謝し、負債に拘束されない毎日を喜び、その事実に生きていなかったからです。
 
 クリスチャンも赦されたという事実をしっかりと確認し、その事実に感動し、喜び、感謝しながら生きなければなりません。自分は赦されているのだ。神を恐れる必要はないのだ。もう罪の下に生きる必要はないのだ、永遠の命をいただいているのだと、いつもくりかえして、言い聞かせながら暮らすのです。自分が神に愛されているという事実を大切にして、何をするにも、何を考えるのにも、その事実を基にしてやるのです。


V. 力にならなかった事実  

 イエス様のたとえの悪い僕は、赦されているという事実を、自分の新しい生き方の力にすることが出来ませんでした。事実はあったのです。ところがそれが実感されていなかったために、事実は何の力にもならなかったのです。

 クリスチャンが赦されているというのは、借金が赦されているという事実よりも、もっともっと大きな、もっともっと大切な出来事です。ところがクリスチャンが赦されたという事実は、霊的な事実であって、目に見えず、手で触れることができないものです。それだけに実感することが難しいものです。罪を赦された事実、神の子とされた事実、永遠の命をいただいた事実、聖霊を宿している事実。みな霊的事実であって、私たちの目で見、手で触れることができる日常のことではありません。ですからことさらに気をつけて、その霊的事実を常に確認する必要があるのです。

 私たちが祈り、聖書を読み、神様との交わりを欠かさずに生き、イエス様の十字架を常に見上げて歩むことによって、私たちに起こった霊的事実は新鮮な出来事として、私たちの心に刻まれます。すると赦されているという事実が強烈に迫ってきて、私たちもまた、互いに赦しあうことが出来るようになるのです。

 イエス様はこの赦されている事実を、私たちが常々新鮮に思い出し、忘れることがないように、ひとつの儀式を定めてくださいました。それが、聖餐式です。目に見えない事実、出来事を、目に見える儀式で表現し、記憶を新たにし、確認し、実感するためです。










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2011年07月30日

愛されている私たち


      Tヨハネ3:1
   
 愛されていることを知るのは重要です。愛されていると幸せです。愛されていると安心です。愛されていると豊です。愛されていると愛したくなります。他に何がなくても、愛されていると満たされているのです。それが人間です。


T. 愛されるものとして作られた私たち

 私たちは神の愛の対象として造られました。はじめから愛されるために、愛されるものとして造られたのです。だから、愛されると幸せになるのです。現代人は色々なものに取り囲まれて、愛を忘れてしまったところがあります。愛される喜びに気付かず、金銭欲や物欲や権力欲や名声欲に振り回されている人たちは、本当の人間を知らないのです。愛される喜びを知っているといっても、日本語の愛という言葉が、聖書が語る愛という言葉と少しばかり違っているために、愛される喜びにもまたずれがあります。

 私たちが造られた理由、目的を理解して、神に愛されていることを自覚し確認しなおす必要があります。空をゆっくりと舞う鳶(とび)は、空を舞って幸せなのです。海の中に潜ろうとしてはなりません。ミミズは土の中にいてこそミミズの本分を全うできるのです。日向に出てきてはなりません。人間は人間として人間らしく生きるのが最高なのです。
 
 人間は神に造られたものとして愛をたくさん受け、神の恵みを満喫するのです、そして神に感謝と賛美をささげるのです。


U. 見捨てられなかった私たち

 自分の意思で神を愛し、神の栄光を現すように、自由を与えられていた人間は、その自由の特権を間違って使い、神にそむいて罪を犯してしましました。そのために、人間は神の愛を素直に受け取ることが出来なくなってしまいました。神のもとを追放されてしまったのです。ところが神は人間を滅ぼすために追放されたのではなく、救うために追放されたのです。神は罪を犯した人間を見捨ててしまったのではなく、なおも愛し続けてくださったのです。

 私たちが神にそむいても見捨てられない神、そのような神だからこそ、安心して信頼できるのです。罪のために、毎日失敗と過ちとをくり返さなければならない私たちが、罪を赦すことができない神と御付き合いすることは出来ません。罪を犯しても見捨てられない神は、愛の神なのです。


V. 救いの計画に入れられた私たち

 神は時間を超越しておられる方ですから、人間が罪を犯す前から人間が罪を犯すことをご存知です。そしてすでに赦すと決めて、赦すための準備と計画を進めておられるのです。人間が神の前から追放されたのは、神の聖さのために人間が滅んでしまわないためです。神は罪人を追放した上、人間を救う道を備えてくださいました。それがキリストの十字架による、身代わりの死でした。すべての人間は、このキリストの十字架の功徳によって救われるのです。キリストが生まれる前に生きていた人たちも、キリストを知らないまま、キリストによって救われています。彼らがキリストを知っていたかどうかが問題なのではなく、神がご存知であったことが大切なのです。キリストが十字架で死んでくださった後に生きた人たちは、キリストの十字架の福音で救われるのです。ただし、キリストについての正確な知識によって救われるのではなく、あくまでも神に対する単純な信仰によって救われるのです。私たちははじめからこの救いの中に入れられるように、神が定めてくださったのです。


W. 愛を回復された私たち

 罪のために神から追放され、遠ざけられていた私たちは、キリストの十字架のあがないによって罪を赦され、再び神の近くに生きることができるようになり、神の祝福を直接受けることが出来るようになりました。神との愛の交わりが回復されたのです。いまや私たちは、わたしたちが創造されたときの動機としての神の愛だけではなく、交わりの回復のための、十字架の犠牲の愛を体験しました。私たちの罪が、神の愛をさらに明らかにしたのです。いま、私たちは神の愛を体験したものとして神を慕い、ほめたたえ、神に喜ばれる生き方をしようと励みます。それが神を愛するということです。そしてその愛に神はお応えくださるのです。私たちの必要を満たし、お守りくださるのです。


X. 愛するようにされた私たち

 愛の回復は私たちの内側にも影響を与えます。罪によってゆがめられ、弱められ、押しつぶされていた、私たちの愛する力が、命を吹き込まれ、力を与えられ、再び愛することが出来るようにされたのです。ですからクリスチャンは、キリストが私たちを愛してくださったように、互いに愛し合うことが出来るのです。キリストの愛を体験した人たちは、その愛によって愛を回復されて、愛の共同体を作るのです。それが教会です。そして教会は、さらに多くの人々が神の愛を体験できるように、神の愛を宣べ伝えるのです。

 いまや私たちは愛することが出来るようにされているのです。

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2011年07月29日

耐え忍んで待ち望む


     出エジプト23:27〜31

 奴隷の地エジプトを出立したイスラエルの民は、先祖アブラハムに約束された地、カナンに向けて旅を続けていました。もう少ししたら、約束の地に踏み込むことができると思われたそのとき、神は改めて、お与えになった約束を確認してくださいました。

 ところがその約束は、カナンの地に住んでいる敵を直ちに追い出してくださるというものではなく、長い年月をかけて徐々に追い払うというものでした。ふつうの考えでは、今すぐに敵を追い払ってもらったほうがどんなに良いかと思いますが、神にはもっと深い読みがあったのです。土地が荒れ果て、野の獣が増して、イスラエルの民を襲うことがないためでした。


1. 人の願いと神のお取り扱い  

 私たちには様々な願いがあります。ああなれば良いのに、こうなって欲しいのにと思い、神様にお願いします。ところが、私たちの祈りの多くは聞かれないままで終わってしまいます。そこで失望し、神様は私の祈りなど聞いておられないのだと思ってしまいます。でも神様は、私たちの祈りを聞いておられないのではありません。聞き届けてくださらなかっただけです。聞いてくださっても、願った通りにはお応えくださらず、もっと良いようにしてくださることが多いのです。神様は、私たちに最善になるように取り扱ってくださるのですが、それが私たちには分からないだけなのです。N先生は笑い話のような言い方で説明しています。神様が私の祈りを聞いてくださらなかったことに、心から感謝していますよ。もしも、あのとき私の祈りが聞かれていたら、私の愛する奥さんは違う女性(ひと)になっていたからです。


2. 人の見るところと神のご覧になるところ  

 人の願いと神のお取り扱いが異なるのは、人の見るところと神のご覧になるところが異なるからです。人は目先のことだけを考えます。三日先のことどころか、3時間先のことも分かりません。物事の表面だけを見て、その深くを見ることができません。人の言葉を額面どおり受け取って、裏を読むこともできません。人にはわからないことばかりなのです。しかし、全地全能の神はすべてを見通して、物事をお進めになるのです。しかも、神には失敗や間違いはないのです。ですから私たちは、目に見えるところがどのように自分の望みや願いとかけ離れていようと、神に祈ったならば、神が最善にしてくださると信じて、不安を抱くことも恐れを持つこともないのです。


3. 人の信仰と神の誠実さ  

 私たちが神様を信じるといった場合、それは神を信頼するという意味です。神に頼ることです。たとえ、悪人であっても、人の信頼はできるだけ裏切りたくないものです。ましてや完全な善で愛に満ちておられる神は、誠実なお方です。信頼するものを裏切ることなどあり得ないのです。私たちが神のみ言葉、神の約束に立って行動するならば、神が責任を取ってくださるのです。火事で燃えている二階の窓から、恐怖に泣き叫ぶ小さな男の子が体を乗り出しました。その下で、父親が叫びました。「お父さんがしっかり受け止めてやるから、勇気を出して飛び降りてごらん。さっ! 早く飛び降りてごらん!」ここで飛び降りるのは、男の子の父親に対する信頼です。父親はたとえ腕が折れても、子どもを抱きとめることでしょう。私たちは神に信頼して、神の手の中に飛び込むのです。飛び込む私たちを受け止めてくださるのは、神の誠実さと力強さです。


4. 神の折々の助け  

 私たちの神は誠実な方です。でも、神様のお約束が成就されるまでには、多くの場合、長い時間がかかります。それまでじっと忍耐して信じ続けるのは、なかなかできることではありません。神様はそれもご存知です。ですから、私たちを励ます勇気付けるために、神様は折にかなった助けと導きを与えてくださいます。それらの出来事に気付いて、神様のお取り扱いに感謝し、勇気を新たにし、信仰を確実にすることが大切です。私たちが、日々助けられたり、守られたりするのは、それ自体が目的ではありません。それはよりはるかに大きな目的のための、単なる励ましに過ぎないのです。
やがて私たちは、神の約束をしっかりと自分のものにして、新しく造られた天と地に、神と共に住むようになるのです。私たちは見えるものにではなく見えないものに目を注ぎます。(Uコリ4:17〜18)









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