2011年08月30日

私たちの幸せを願う神様

  
     マタイ5:45

 時々、「神も仏もあるものか」という言葉を聞きます。そのようなことを言うのは、ほとんどは、神も仏も軽んじて生きてきた人々です。本当の神様を正しく信じてきた人がそのように言うことは、まずありません。神様は、私たちが幸せに生きることを、望んでおられるからです。


T. 創造のとき   

 神様は、人間をお造りになるとき、人間が幸せに生きることを望んで、お造りになりました。神様は愛の神様であり、人間の幸福を願っておられるのです。私たちがペットを飼うときでさえ、ペットが健康で楽しく生きることを望みます。ましてや、愛の対象として私たちをお造りになった神様が、私たちの不幸を望み、私たちが苦しみ悲しむ姿を見たいと、お思いになるはずがないのです。

 神は愛であると聖書に記されている通り、私たちの神様は完全な愛の神様ですから、ただひたすらに、人間の思い、人間の幸せのために、美しい自然を準備してくださいました。今でこそこの自然も、人間の罪の結果、秩序が乱れ、いろいろと破壊されていますが、それでも、私たちは素晴らしい自然の中に生きることが出来ます。本来の自然は、もっともっと素晴らしかったのです。神様は、私たちが息をし、食べ、眠り、健やかに暮らせるように、すべての必要を準備してくださったのです。福音派と言われる私たちの信仰は、キリストによる神の贖いと言う面をとても強調しますが、このもともとの神様の愛、創造に示された神様の愛が強調されることは余りありません。しかし、この創造の愛が、基本なのです。


U. 贖いのとき    

 神様は人間の幸せを願って、贖いの準備をしてくださいました。人間が罪を犯してしまったとき、神様は怒りを発して、人間を滅ぼしてしまおうとはお考えにならず、かえって、直ちに贖いの準備を始めてくださったのです(創世記3:15)。旧約聖書全体の教えを総まとめにすると、神様は救い主を与えてくださいますという、お約束です。さまざまなできごと、いろいろな物語、たくさんの詩や歌,そしてたび重ねて与えられた預言も、つまるところ、救い主がおいでになるということなのです。そのように、準備された上で、救い主、神のみ子はお生まれになりました。

 しかし、これはただの誕生ではありません。永遠の言葉であり、光であり、命である神様、三位一体の第2格の神様が、神様のお姿を横に置いて、低く貧しく卑しい人間の姿を取って、この世に下ってきてくださったのです。それは、人間が、溺れ死にそうな子猫を救うために、どぶ川に飛び込むより、もっともっと大きなことです。しかも、この救い主を認めず、手にかけて殺そうとしていたような、人間たちのために、人となってくださった神は十字架にかかって苦しみ、命を落としてくださったのです。私たちはそれほどまでに愛されているのです。神様は私たちが幸せに生きるために、そこまでして下さったのです。


V. 完全な救いのとき     

 私たちはすでに救われています。すでに神様の子供です。永遠の命を頂いています。しかしこれらの事実が完成するのは、まだ未来のことです。現在私たちは、まだまだこの世に生きて、さまざまな悪と戦い、困難に立ち向かって生きています。その中で大切なことは、神様は私たちの幸せを願っておられると言う事実です。私たちの毎日は苦しく、問題に満ちていても、救い主である方が、いつも私たちと共にいて、私たちを導いていてくださるのです。私たちのために、すでに悪魔に勝利をしてくださった方が、いつも守ってくださるのです。私たちに危害を加えようとするものを、追い払ってくださるのです。神様は、ご自分のみ名のご栄光のために、ご自分のみ名をもって呼ばれる私たちを、支えてくださるのです。

 ですから、私たちは確信を持って神様に信頼します。困難な出来事が襲ってくるとき、どうしたらよいかわからないようなとき、私たちは神様に向かって叫びます。すると、神様は私たちに助けのみ手を伸べてくださるのです。私たちは、やがて現れる完全な救いのとき、神様の喜びにあふれることを知っています。しかしその喜びを、今のこのときに、前倒しにして体験することが出来るのです。








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2011年08月29日

アブラハムの子孫

    
             ガラテヤ3:1〜9

 ガラテヤ書全体の主旨は、人が救われるのは行いによるのではなく信仰によるという、非常に重要な真理を徹底して教えなおすことでした。パウロの宣教によって神を信じ、信仰による救いを得たガラテヤの人々が、エルサレムからやってきた強いユダヤ教の背景を持ったクリスチャンたちの、間違った信仰理解に毒されて、この重要な真理を台無しにしてしまいそうだったからです。エルサレムから来たクリスチャンたちは、救われるためにはユダヤ人になり、ユダヤの習慣を受け入れ、モーセの律法を遵守しなければならないと、主張していたのです。パウロは、そのような教えを「行いによる義」と定義づけ、徹底して否定したのです。


1. 異邦人の信仰による救いは、アブラハムのときから想定されていた  


 パウロが教えをしていたのは起源50年を境に数十年でした。アブラハムが生きていたのはそれよりも2000年以上も前のことです。しかし、アブラハムが神を信じたことによって義とされた、すなわち信仰によって救われたという出来事は、それから2000年以上も後の、異邦人の信仰による救いの模範として起こったというのです。そしてパウロのときからさらに2000年隔てた現代の私たちの救いもまた、アブラハムの信仰による救いに倣うものだというのです。

 ユダヤ人たちは、肉体的な血筋によればアブラハムの子孫でした。ところがパウロは、肉による子孫が本当の子孫ではなく、同じ信仰による救いを引き継ぐ私たちこそ、アブラハムの本当の子孫であると語り、私たちこそアブラハムの祝福を受け継ぐ者であると教えたのです。
 
 アブラハムの信仰による義は、今のクリスチャンたちの人生に、決定的な力、重大な意義を持っているのです。


2.救いを得たアブラハムの信仰は模範的な信仰ではなかった  


 アブラハムが信仰によって義とされた、すなわち救いを得たという事実は私たちの模範です。しかしアブラハムの信仰の内容は、決して模範的な、立派な信仰ではありませんでした。むしろそれほど模範的でも立派でもなかったということが、実は模範だったと言えるのです。
 
 アブラハムが信じたのは、神が救ってくださるとか、義としてくださるとかいう「高尚」なものではなく、年老いているにも拘らず、子どもが与えられるという、神の言葉を信じただけに過ぎません。
 
 しかもアブラハムの信仰は、まったく定まらなく揺れ動く、風前の灯のような信仰でした。確かに、はじめは神の言葉を信じたのですが、すぐに疑って、神の言葉に反して妻サラの助言を受け入れ、エジプト人の召使女によって子どもを設けています。
 
 さらにアブラハムは、罪も、悔い改めも、罪の許しも、贖いも、キリストの身代わりも、十字架も知りませんでした。そのようなことを一切知らずに、アブラハムは救いを得たのです。つまりアブラハムの救いは、現代のプロテスタント信仰とは異なって、「知る、知識を持つ」という行いを必要としなかった救いです。
 
 救いは私たちの知識によるのではなく、キリストの贖いによるのです。私たちが知ろうが知るまいが、理解しようがしまいが関係なく、神がご存知で、神がすべてを承知しておられるのです。私たちの救いはその神のご理解により、神が整えてくださったキリストの十字架の贖いによるのです。  

 
3. アブラハムの模範による私たちの信仰  

 キリスト教文化という背景がない日本人に、クリスチャン信仰を教えるのは容易ではありません。ところが私たちは、人間の罪、神の聖さ、神の怒り、神の刑罰、人間の罪の報酬、神の愛、キリストの十字架、身代わりの死、罪の悔い改め、信仰など、たくさんのことを教わり、あたかもそれらを理解することが救いの条件であるかのように、導き育てられてきました。そのために、クリスチャンではない日本人に救いを伝えようとすると、それはもう、「ものすごく」難しいことになったのです。
 
 私たちの信仰の模範であるアブラハムの信仰は、罪についても、悔い改めについても、キリストについても、十字架についても知らない信仰でした。極端な言い方をしますが、私たち日本人も、救われるために、義としていただくために、そのようなことを知る必要はないのです。ただ、神に信頼すればよいのです。

 天地を造り、人間を造り、あらゆる良いもので私たちの生活を支えていてくださる神を認め、その神に信頼し、その神におすがりすればそれでいいのです。日本人が本能的に感じ、文化的に受け入れてきた、憐れみ深い大きな神、恵みに富み、優しく心豊かな神を信頼し、おすがりするだけです。

 ただ、残念ながら、日本人は神についておぼろげな理解しか持っていません。神に信頼するといっても、「どの神様ですか?」ということになります。ですから、私たち日本人が日ごろから心で感じている神が、実は、天地を造り、豊かな自然を備え、その中に人間を住まわせ、必要なあらゆる物を与えてくださっている、恵みに富む神であることを教えてあげればいいのです。この神を信頼するように励まし、お祈りの仕方を教え、祈りを導いてあげればいいのです。

 日本人はどの神か分からないために、曖昧な祈り方をしてきました。そこで、はっきりと祈る対象、お願いする神様を呼ぶために、キリストの父なる神様と教えてあげましょう。そしてキリストの名によって祈ることを教えてあげましょう。キリストについては、次の機会にお話をすればよいのです。

 アブラハムの信仰のように、まだまだ理解不足でいいのです。大切なのは、まず、祈りに答え、信頼に応えてくださる神を体験することだからです。






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2011年08月28日

アブラハムの信仰に倣って

  
            ガラテヤ3:8
 
 引用したガラテヤ書の記述によると、アブラハムが信仰によって義とされたのは、私たち異邦人が、同じように、信仰によって義とされることを知るためでした。アブラハムが義とされた信仰は、私たち異邦人の信仰のあり方の、模範となるためでもあったのです。

 人間は、善行を積み、功徳を重ね、自分の努力によって救いを買い取るのではなく、神を信じることによって、神の恵みとして救いをいただくのだということです。

 ここで「信じる」と訳されている言葉は、「信頼する」と言う意味です。アブラハムが神を信頼することによって、神に救っていただきました。それは私たち日本人のような異邦人も、神を信頼することによって、救っていただけるのだと、知るためでもあったということです。


 T. アブラハムの神知識  神を信頼するためには、まず神について知らなければなりません。まったく知らないままで信頼することは不可能です。ではアブラハムはどのくらい神について知っていたのでしょう。当時のアブラハムの神についての理解は、むしろわずかなものでした。彼の神知識の大部分は、神に召された、導かれた、語りあった、助けられたというような体験によるもので、勉強による知識ではありませんでした。ですから、日本人が「信じられない」と言って悩むときの「信じる」と、アブラハムが「信じた」という場合の信じるは、相当意味が違うのです。
 
 簡単に言うと、アブラハムは神のことがあまり理解できていなかったのに、神を信頼していたのです。でもこれは、決して愚かなことではなく、私たちの日常ではごく普通のことです。

 神に信頼すると言った場合の信頼は、夫婦が互いに信頼すると言う場合の信頼とまったく同じです。結婚相手となる人の、すべてを理解できなければ結婚しないとなると、結婚できる人はいなくなります。互いに相手のことを良く知らないまま、「信頼」するのが結婚です。よく知らない人を一生の伴侶としたほど軽はずみで、博打のようなことができた人なら、誰でも、神を信頼することはできるはずです。

 
 U. アブラハムの信仰  ではアブラハムは神の何を信頼したのでしょう。アブラハムが信じたのは、神が救ってくださるとか、永遠の命を与えてくださるとか、罪を赦してくださるとか言うことではありません。それは新約聖書の時代が来るまでは、誰も知らなかったことです。アブラハムが信じたのは、彼も妻も老年になっているのに、神が自分たちに子供を与えてくださると信じたのです。そのように約束してくださった神の言に信頼したのです。
 
 ところがこの信頼に答えて、神は子供を与えてくださる前に、アブラハムを「義」と認めてくださった、すなわち、救いに入れてくださったのです。アブラハムはまだ「義」も「救いも」知りませんでした。つまり、アブラハムの理解が大切だったのではなく、神が知っておられることが重大なのです。
 
 大切なのは、神に対する信頼です。神に頼ることです。人はだれでも、信頼されることを喜びます。人をご自分に似せて造りになった神もおなじです。幼子が父や母のことについて頭で理解することは、あまり大切ではありません。大切なのは父や母を信頼することです。そのような信頼の心を、神はもっともお喜びになるのです。

 昔から「窮鳥懐に入れば、猟師もこれを撃たず」と言われています。自分を信頼するものを裏切らないのは、人間世界でも一般的です。ましてや、神はご自分を信頼してくるものを、お見捨てにはならないのです。
 
 またこのときのアブラハムの信仰は、決して私たちの模範になるような立派な信仰ではありませんでした。すぐに神を信じられなくなり、妻サラの助言をいれ、エジプトの召使女によって子を設けるという、不信仰な行動をしたのです。神はそのような不徹底な、不完全な、揺れ動く信仰でも、「義」とするに充分なものと判断されたのです。


V. 異邦人の模範  

 神に義とされたときのアブラハムは、まだまだ神様のことを良く理解してはいませんでした。でも、信頼できたのです。日本人は、欧米人のようには神のことを理解していませんし、なかなか理解できません。同じ異邦人でも、長い間キリスト教文化の中にいたかどうかで、まったく違うのです。でもアブラハムがそうであったように、神を信頼するのには、それほど深い神知識を必要とはしないのです。
 
 ルネサンスの流れの中で発展したプロテスタントの神学は、神を知る知識を非常に重んじるものです。そのためにプロテスタントは、いきおい、知識偏重の伝道と教育をすることになってしまいました。日本人の信じている神は本当の神ではない。本当の神は・・・・・」と、日常生活にはほとんど関係が無く、無味乾燥な神知識を植えつけようと奮闘しすぎたのです。

 ところが日本人は、昔から、知的な意味で神を知ることに、ほとんど興味を持っていませんでした。そのような伝道で日本人が受ける印象は、キリスト教は自分たちの信仰を軽蔑している。理屈っぽい、自己主張ばかりしている。日本の社会では役に立たないなどというものになってしまいます。

 神をどれほど知的に理解しても、それによって救いをいただくことはできません。救いは、人間を愛しておられる神に信頼することによっていただけるのです。だから、単純に信頼することを教えるべきなのです。 

 また、知識偏重のプロテスタント神学により「信仰」までもが、観念論的なものになってしまいました。信仰とは信頼であること、素直に頼ることだと強調すべきです。幼子が両親を信頼して手を差し伸べるように、神に信頼して生きることを教えれば良いのです。また、宗教的な意味で使う日本語の「信じる」は、信仰するという意味になります。「信仰」はそれなりにいい言葉ですが、「信頼する」という単純なで、力強い意味が失われています。

 義とされたときのアブラハムの信仰は、まったく不甲斐ない信仰でした。しょうがない信仰でした。でも、神はその信仰を喜び、受け入れてくださったのです。それは今の時代に生きる、異邦人である私たちの模範となれるように、セッティングされたのです。

 高度な神理解を必要としないと同じように、完全な信仰、立派な信仰も、すくのためには不要です。アブラハムの時がそうであったように、救いの理解も、キリストの理解も、十字架の理解も、罪の悔い改めさえ不要なのです。それらが大切なのは説明するまでもありませんが、それよりも、単純に神に信頼することのほうが、よほど大切なのです。キリストも、十字架も、私たちが理解して効力を持つのではなく、神が計画し、実行してくださった救いの働きであり、神がご存知であるから有効なのです。

 神についてのより深くより高い知識は、ゆっくりと積み重ねられていくものです。信仰もゆっくりと成長します。最初から高い知識と強い信仰を求める伝道や教育ではなく、まず単純に信頼して、神の恵みの中に入り、その中に生き、アブラハムのように体験によって神を知るように、励ます伝道にしたいものです。



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