2011年09月12日

私たちは証人です


                 使徒1:8


 私たちはキリストの証人です。「証人になろう」ではなく、すでに証人なのです。

地の塩は味気を失いません。山の上の町は隠れることがありません。私たちの身に

起こったことを隠さずに生きていれば、それだけで証人です。しかしそこで満足す

ることなく、さらに積極的に証の言葉を語って行きたいと思います。私たちの証で、

永遠の命を得る人たちが出てくるのです。証は、自分のことをお話するのではあり

ません。自叙伝や自慢話や苦心談のお粗末ではないのです。自分の身に起こったこ

とを通して、キリストについて語るのです。



 ただし、普通の日本にとって、「キリスト」と言う言葉はなんとも理解しがたく、ど

こか強い違和感があって受け入れられません。そこで、もっともっとなじみがあり、す

んなりと受け入れられる「神様」と言う言葉を使いましょう。そのとき、「私が信頼し

ている神様」とか「私が信じている神様」、あるいは「私が頼っている神様」などと表

現し、「本当の神様」などという、言外に「あなたの神様は偽者だ」という意味を漂わ

せる、「上から目線」の言葉使いはやめましょう。もう少し話が進んだら、「聖書に書

かれている神様」とか、「天と地をお造りになった神様」などというのも良いでしょう。




T. 単純化して語る 


 自分が出会った神球、自分を助けてくださった神様、祈りに応えてくださった神様。

一人のクリスチャンが、色々な証をすることができます。たくさんの体験をしているか

らです。それらをただだらだらと話すのではなく、短く、要領よくまとめ、単純化する

ことが大切です。要点を絞ってお話しするわけです。




 50年前に生まれたときから、今日に至るまでの自分の人生を、長々と語る人がいま

すが、悪い見本です。その長い証を主題ごとに切り離してまとめ、いくつかの短い証

にしておきましょう。すると、色々な機会や状況、あるいは聞いている人に応じて、

適当な部分をすばやく効果的にお話できます。経済的に助けられた。病気を癒してい

ただいた。人生の意義を求めていたときに救われた、家庭問題を解決していただい

た。それぞれの証を、普段から準備しておきましょう。



 
 どれほど熱心に力をこめて語っても、理解してもらえなければ何の益にもなりませ

ん。また、聞いている人の気持ちや立場に配慮していない、独りよがりの証では、共

感を得ることができません。共感を得ることができない証には、証自体がどれほど素

晴らしくても、力がありません。証をしますと、肩を張った言い方をせず、話の流れ

に沿って、「そうだったの・・・。私もね・・・・。でも私の場合は、とっても素敵

なことが起こって、たすけられたの・・・」と、自然に語るのです。




U. 聞いている人が神に頼る気持ちを起こすように語る  


 「素晴らしいお話だった」、「感動的な体験談だった」、「あの人も大変なところ

を通ってきたのね」、というような感想を起こさせる証は、良くない証です。語った

人が表に出ていて、神様が隠されてしまっています。証の主人公、証の立役者は神様

でなくてはいけません。神様の素晴らしさ、神様の力強さ、神様の助けの速さ、神様

の情け、神様の愛などが、明らかに舞台表出てこなくてはならないのです。




 それだけではなく、聞いている人が同感して、「私も同じような体験をしたい」、

「自分も助けてもらいたい」と思うように語るのです。おいしいレストランがあった

ら、人に教えてあげたくなります。そのときは、ぜひ行きたくなるようにお話ししま

す。腕のいい外科医に助けられたことがあったら、これから外科手術をしなければな

らない人には、喜んで紹介してあげたくなります。同じように、私たちは神様のこと

を語り、紹介し、神様のもとに行きたいと思うように、語るのです。




V. 信仰の祈りに導けるように語る  


 大切なのは、信仰を持たせることです。神様を信じるように勧めることです。あま

り急いではなりません。でも、信仰を持つように励まし勧めることなしに、いつまで

もぐずぐずしていてもいけません。
 



「信じましょう」とか、「信仰を持ちましょう」という言い方は、クリスチャンたち

の間では良く用いられていますが、一般の人たちにはほとんど意味が不明です。です

から、「神様に頼ってお祈りしましょう」と言うのが良いでしょう。頼ると言うのは

心の動きです。お祈りはそれを具体的に表現したものです。お祈りは、信じるからす

るのです。たとえちょっぴりでも、信じればこそ祈るのです。




 多くの日本人にとって、お祈りは日常のことであまり違和感をもちません。それだ

けに、「軽々しく」お祈りすることが良くあります。そこで、「お祈りすると言うこ

とは、神様に頼ることですよ」、気休めのお祈りではなく、どんな祈りでも聞いてく

ださる神様に頼ることです。それが信じると言うことです。「たとえ頼る気持ちがど

んなに弱くても、信仰がどんなに小さくても、神様は聞いてくださるのですよ」と励

まし、「お祈りさせてください」と言って、祈ってあげるのも良いでしょう。




 十字架の上で息を引き取る直前、「私を思い出してください」と願った強盗殺人犯

の、あのおずおずとした小さな願い、・・・・日本流に言うならば、「折れた線香の

一本でも・・・」でしょうか・・・・。それさえも、大きく応えられたのです。小さ

な信仰でも、真実の信仰は応えられるのです。様子を見て、「自分の言葉で祈ってみ

ませんか?」と勧めることができれば、もっと良いでしょう。



 ここで、私たちに信仰が必要です。神様は未信者の小さな信仰にもお応えくださる

ことを信じて祈りましょう。そして、未信者が、難しい神学的理屈を理解する前に、

罪を悔い改めて信仰を告白する前に、神様の力、神様の助け、神様の恵み、神様の愛

を体験できるように、導いてあげましょう。


 
 神様のことが良くわからなかったイスラエルの人々に、神様はまず助けのみ手を差

し伸べてくださいました。エジプトでの10の奇跡は、ただ、エジプト人にご自分の

力を見せ付けるためだけではなく、イスラエル人たちに、ご自分は、まず助けのみ手

を差し伸べる神であることを示すためであった、神様の自己紹介のためでもあったの

です。神は、未信者が理屈で神様を信じるようにされたのではなく、まず神様の助け

を体験させ、信頼することをお教えになったのです。







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福音を語ろう

 
             マルコ16:15

イエス様は天にお帰りになる直前、みもとに集まった弟子たちにお命じになりました。「全世界へ出て行って福音を宣べ伝えなさい。」福音を宣べ伝えることは、クリスチャンに与えられた最も重要な使命です。パウロは「私は福音を恥としない。それはユダヤ人をはじめ、すべて信じる者に救いを得させる神の力である」と語りました。

 私たちは今まで、ただひとつの福音があるだけだと思ってきました。それは間違っていません。「信じるものに救いを得させる福音」です。ところがこの福音には、非常に大きな幅があり奥行きもあり、多くの面があることを知らなければなりません。その福音のどの面、どの部分が福音となるのか、聞く人々の民族性や文化、あるいは個々人の生い立ちや経験や理解によって異なるのです。


T. イエス様の時代のユダヤ人への福音  


 ユダヤ人は旧約聖書を持ち、それを熱心に学んでいましたから、神について、また神の律法について非常に良く知っていました。彼らはまた、旧約聖書に約束されていた救い主が現われることを、今か今かと待ち続けていました。彼らが待ち焦がれた救い主は、自分たちユダヤ民族を、宗主国ローマから解放し、独立国家としてくれる、軍事的また政治的救い主でした。

 ところが、神が旧約聖書で約束された救い主には、二重の意味があり、第一は、イスラエル民族だけではなく、全人類の救いであり、罪と罪の刑罰からの救いであり、永遠のいのちに至る救いだったのです。クリスマスに生まれてくださったイエス様、すなわち第一降臨のイエス様の使命は、この第一の約束の救いをもたらすことでした。イスラエル民族が渇望した民族の独立と救いは、第二の約束に属し、イエス様の再臨、つまり、第二降臨の使命に属することだったのです。

 およそ2100年前、イエス様が現れて多くの奇跡を行うと、ユダヤの人々はその力に驚くと共に期待を大きく膨らませ、この方こそ自分たちの民族を救ってくださる約束の方だと歓喜して迎えました。ところがイエス様に、軍隊を組織してローマと戦う意思がないことを知ると、彼らは手のひらを返したように、「十字架に付けよ」と叫びました。期待を裏切られて、騙されたと思ったのです。

 第一降臨のイエス様は、人々に罪と罪の刑罰からの救い、魂の救い、永遠のいのちに至る救いをもたらしてくださったのです。その魂の救いを得るために絶対に必要だったのは、ユダヤ人たちが自分の罪を認めて悔い改めることでした。自分たちは神の選民であるとおごり高ぶっていた彼らに、自分たちの罪を認めさせ、自分たちの惨めさに打ちのめされた気持ちにさせなければ、悔い改めはありません。

 そのために、イエス様の言行録である四つの福音書を読むと、いたるところに悔い改めの教えがあり、悔い改めへの勧めがあり、悔い改めへの呼びかけがあるのです。


U. パウロの時代の異邦人への福音  


 イエス様が天にお帰りになり、弟子たちは全世界に散らばって行ったとき、多くの異邦人たちが福音を聞くようになりました。福音の真髄は、ユダヤ人に対する福音とまったく同じでした。全世界に出て行って福音を述べ伝えるように命じられた弟子たちは、当初、ユダヤ人に対して語ったと同じように福音を語っていました。

 ところがしばらくすると、神は異邦人のための使徒としてパウロを立てて新しい啓示を与え、福音の異なった一面を大きく見せてくださいました。それは、ユダヤ人も異邦人も「信仰」という同じひとつの条件、すなわち、神を信頼するという唯一の条件で救われるということでした。


 当時のユダヤ人クリスチャンたちの考えでは、新しく教会に加わってきた異邦人たちは、まず、ユダヤ人にならなければ救われないと言うものでした。そこで彼らは、異邦人に対し、ユダヤ人になるためのさまざまな条件を押し付けようとしたのです。それが、「割礼を受ける」という言葉で集約されているのです。ユダヤ人クリスチャンたちの考えの背後には、自分たちは神に選ばれた選民であるという誤った誇りがありました。しかしパウロは、異邦人もユダヤ人も等しく、神を信頼するならば、そのことだけで、他には何の条件もなく救われると説いたのです。
 
 これがパウロの時代の異邦人への福音でした。パウロの時代の異邦人の多くは、ユダヤ人と接触して、ユダヤ人が信じていた神について、また律法についても知っていたために、パウロは、ユダヤ人に対するのと同じように、わずかながらではありますが、悔い改めについても語っています。

 ところがユダヤ人との接触がまったくなかった異邦人に対しては、異なったアプローチを取り、福音を異なった方法で語っています。真の神を知らなかった異邦人には、まず、真の神を教えようとしているのです。真の神を知らない人々には、悔い改めよりも先に、真の神についての教えが福音になるからです。(参照:使徒の働き17章16〜34。ここで「悔い改め」と訳されている言葉は、筆者の見解によると、むしろ「考え方を変えて」とでも訳すべきものです。この件については筆者のブログ、「クリスチャンとして日本で生きる」の、「日本人に受け入れられる福音」を開き、「悔い改めについて」をお読みください。)


V. 私たちの時代の日本人への福音  


 私たちは、私たちの時代の日本人に福音を語る使命を帯びています。イエス様の時代のユダヤ人でもなく、パウロの時代の異邦人でもありません。私たちの時代の日本人にとって、本当に福音となるように福音を提示しなければなりません。ユダヤ人に語りかけたイエス様のように、「悔い改めなさい。神の国は近づいた」と語っても、日本人には何のことやらさっぱり分からず、福音にはならないどころか、余分な反発まで招いてしまいます。
 
 日本人への福音は、天地を創造した神が存在し、この神が日本人を含めてすべての人間を愛し、育んでおいでになったこと、また、誰でもご自分を信頼し慕って来るものを拒まずに受け入れ、豊かな祝福とともに永遠のいのちまで下さることです。

 日本人も、心の奥深いところでは、強烈な神意識を持っています。ただ、八百万の神々などに表現された神があまりにも愚かしいために、一足飛びに、無神論者を自認するところまで行ってしまったのです。

 日本人の多くは、無神論者だと言いながら、目に見えず、言葉で表現もできない、大きく高く清らかで、恵み豊かな神をひそかに感じ、信じているのです。太陽を昇らせ雨を降らせ、作物を稔らせ動物を育て、人間を喜ばせてくださる神を、本能として感じ、信じているのです。ただ、それを上手に表現できないだけです。それが日本人の一般的な神観です。

 私たちはその日本人の神意識に共感をもちながら、聖書を用いてさらに詳しく語ればいいのです。聖書が教える神は、日本人が昔から感じ、崇めてきた神です。日本人の神観には不明瞭なところや分からないところ、あるいは間違ったところがたくさんありますが、間違いを指摘して議論になるより、聖書の教える神について語るだけがよいのです。 
 
 この神が、一人ひとりの人間の幸せに大きな関心を持ち、幸せになるようにと願って、いろいろな祝福を与えてくださいましたが、さらに、もっと大きな祝福を与えようと望み、願っておられるのです。そればかりか、永遠のいのちを与えて、死んでも生きることができるように、しかももっともっと素晴らしい世界に生きるようにしてくださるのです。これが、現代の日本人に対する福音です。
 
 イエス様の十字架、罪、悔い改めなどについては、順次教えていけばいいのです。この豊かな恵み深い神の祝福を受けていながら、充分に感謝もせず生きてきた不義理を、お詫びするように勧めると良いのです。神に対する不義理が、罪の核心です。不義理を詫びるのが、罪の悔い改めです。神はいつでも赦すことができるように、すでに準備を整えていてくださいます。それが、イエス様の身代わりの死です。
 
 はじめから、罪だ、悔い改めだと語っても、日本人に対する福音にはなりません。福音は福音です。でも、日本人に語るときには、日本人にとって福音であると感じられるように、語らなければなりません。
 
  福音を語りましょう。それが私たちの使命です。










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2011年09月11日

おおらかな神

 
    マタイ5:43〜47、6:25〜34、7:7〜12

 旧約聖書に示された神は、一見、大変厳しく恐ろしい神のようです。一方、イエス様がお教えになった神は、とてもおおらかで気前のいい神です。パウロの教えた神を見ると、恵み豊かでありながら厳格な神に感じます。神はあらゆる意味で無限の方であるために、その性格あるいは性質にしても、その場その場の状況に応じて非常に幅広く、まるで、まったく違う神でもあるかのように現れてくださいます。そこで今日は、イエス様の教えを通して神の姿を学び、神との正しい付き合い方を学びましょう。
 

T おおらかで気前のいい神   


 イエス様がお教えになった神の特徴は、とてもおおらかで気前のいいことです。特に山上の垂訓といわれるこの一連の教えの中では、それがはっきりしています。豊かな自然を造り、それを維持し、私たちにたくさんの恩恵を下さる神です。

 旧約聖書に現された神は、善人に対しては優しく慈しみに富む一方、悪人には徹底的に厳しく険しい神でした。ところがイエス様は、この同じ神を、善人にも悪人にも同じように太陽を昇らせ、雨を降らせて下さる恵み深い神として、お語りになっているのです。厳格な律法の神としてではなく、人間の弱さや足りなさや罪深さを認めたうえで、暖かい愛情の中に生かしてくださっている神として、示してくださったのです。

 この、イエス様がお示しになった神の姿こそ、神の本質の中心です。天地をお造りになり、その中に人間を置いてあらゆる良いもので取り囲み、楽しく生きるようにしてくださった神の姿が、強調されているのです。

 人間の罪を憎む神、小さな罪まで厳しく罰する神、悔い改めを迫る神、高い道徳的基準を設けて追いかけて来る神、聖さを目指すように叱咤激励する神は、あくまでも人間の罪に対応された神の姿です。人間への厳しい取り扱いでさえ、その目的の第一は、人間が恵み豊かな本来の神と交わり、神の祝福を取り返すために、神が整えてくださる準備に過ぎません。神はあくまでも、限りなく豊かな恵みをおおらかにふるまってくださる神です。


U おおらかな神へのおおらかな信頼  


 イエス様が私たちにお教えになったのは、このおおらかで気前の良い神に、おおらかに信頼することです。幼子が親を信頼するように、小鳥が何の思い煩いもなく自然の恵みを満喫して生きるように、すべてを支配しておられる神を信頼して、生きることです。

 自分の罪に囚われ、罪悪感に苛まれ、自己嫌悪に陥り、自己憐憫で悶々として生きるのは、神がお望みになることではありません。多くのクリスチャンたちが、罪意識に打ちのめされているのは悲しいことです。神は私たちを罪と罪悪感から解放し、神の恵みの中に生きるようにしてくださったはずです。そのために、キリストが十字架の上に命を投げ出してくださったのです。私たちが自分の罪を嘆き悲しむよりも、その罪を、大きな犠牲をもって処理してくださった、神を称えるたことが大切です。

 神が第一にお求めになるのは、私たちが罪を犯さない聖い人間になることではありません。聖くなることを第一に置くのは、キリスト教もどきの宗教が教えることで、キリストがお教えになったことではありません。キリストがお教えになったのは、神を信頼することです。その神は、人間の罪を許し取り除くために、キリストを十字架に付けてくださったのです。私たちが信頼するならば、神はその信頼を喜び、私たちを受け入れ、豊かに祝福してくださるのです。それだけではありません。私たちの内に聖霊を住まわせ、私たちが聖霊の力によって聖くなることができるように、導き助け、甦りの時にはキリストに似る者に作り変えてくださるのです。


V おおらかさを可能にした厳格さ  


 神はもともとおおらかで、祝福に富むお方でした。しかし人間の罪のために、そのおおらかさをそのまま表現することができなくなってしまいました。神はおおらかな恵みと共に、聖いという性質を持っておられるためです。聖い神が罪を犯した人間をそのまま受け入れ、限りなく祝福を注ぐことは不可能なことなのです。

 ところが神は、罪人にも限りなく豊かな恵みを注ぎ続けようとしてくださいました。それがキリストの十字架、身代わりの死を定めた動機なのです。自分の罪のために、キリストが身代わりになって死んでくださった事実を理解するためには、まず、自分が神の前に罪を犯したことを理解しなければなりません。聖書には、その罪の自覚を与えるための、多くの教えが含まれています。それで、ともすれば、おおらかで恵み豊かな神が、罪を見張り、罪を責め、罪を罰する、恐ろしい神のように見えてしまうのです。私たちの神は罪を罰する神であるよりは、罪を赦す神なのです。

 神はおおらかな神です。そのおおらかさは人間の罪によっても失われませんでした。神は、ご自分のおおらかさの表現を妨げている罪を、キリストによって処分してくださったのです。神は罪を厳格に取り扱ってくださいました。恵みをおおらかに注ぎ続けるためです。人間が自分の罪を自覚することは大切です。罪を悔い改めることも重要です。でも神は、すでに罪を処理してくださっています。罪の概念に囚われるよりも、神を信頼することのほうがもっと大切なのです。












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