2011年10月25日

献げものの意義



      マルコ12:41〜44


  神殿に立ち寄られたイエス様は、一番少額のコイン二つを献金箱に入れている女をご覧になって、「この女は誰よりたくさんの献げ物をしたのだ」とおっしゃいました。「なぜなら他の者たちは有り余る中から献げているが、彼女は全財産を献げたのだ」
 
  今日は献げものについて学びましょう。


T. 献げものの心

  献金は感謝と喜びの表現です。嫌々ながら、義務感で献げるのは本来の献金の姿ではありません。献金の始まりは、カインとアベルがそれぞれの収穫を神に献げたことにあるようです。(創世記4:1〜5) 自分たちが、ただ神の恵みによって存在し、また生かされていると知り、すべての収穫も神の祝福であると感じて、その感謝と喜びを、献げものによって表現したものです。

  神が、アベルの献げ物を受け入れカインの献げものを退けられたのは、カインの献げ物に不足があったからではなく、多分、その態度が間違っていたからでしょう。自発的な心からの感謝ではなく、義務感から、おざなりに献げたか、習慣となってしまって心がこもっていなかったか・・・・。神は心をご覧になるお方だからです。

  神が献げ物を必要としているのではありません。生かされていることの感謝と喜びの表現として、私たちが、神に献げ物を持参するのです。農耕や牧畜が生業の中心だった頃は、初穂を献げ、初子を捧げることが多かったようです。日本の秋祭りの心に通じます。

  我が家の猫は、ネズミなどを捕らえると、私に見せるために自慢げに持ってきます。わざわざ外から家に持ち込むので迷惑ですが、「どう? 上手に捕ったでしょう!」とでも言いたげです。猫として生きている実感が表れています。私たち人間は、神様のみ前に、自分たちの収穫を自慢するために献げるのではありません。人として生かされ、人として働くことができる喜び、さらにその働きに、豊かな報酬までも与えられていることに改めて感謝して、その表現として献げるのです。


U. 献げものの種類と目的

  旧約聖書には収穫の感謝の献げもの以外に、罪のなだめの献げものが定められていました。罪の大きさ、汚れのひどさによって献げものは異なっていましたが、これは現在、新約の時代には存在しません。なぜなら、イエス様が人類すべての罪の刑罰を負い、十字架にかかり、完全ななだめの供え物、犠牲となってくださったために不要となったからです。

  旧約聖書で定められているもう一つの重要な献げものは、十一献金と言われるものです。これは、すべての収入の十分の一を神様に捧げるもので、基本は生かされていること、必要が満たされていることへの感謝の表現を、定めとして固定化したものです。この献金は、献金というより、神聖国家イスラエルの税金と言った方がわかりやすいと思います。その中には神殿の働きの経費と、いわば「国家公務員」であったレビ人の生活費、それから様々な公共の働き、そして貧しい人たちへの福祉の費用が含まれていました。この十一献金をそのまま現代に適応している教会が多いのですが、聖書の解釈上の誤りがあります。

  もう一つ明らかなものは、折々の必要に応じて募金として求められた献金です。イスラエルの人々は、神の仕事を進めていくために、しばしば金銭や物品を供出しました。特に有名なのは神殿の建築のための供出でした。

  新約聖書においては二つの献げものが目立ちます。ひとつはイエス様の働きや使徒たちの働きを支えるための献げもの、福音伝道のための献げものです。イエス様や使徒達は、周囲の多くの人々の献げもので生活しながら、福音を伝えて行きました。パウロだけは例外で、彼は信徒たちに正しい社会生活を教えるために、あえて自分の手で生活を支えながら伝道に励んでいましたが、福音伝道のための献げものの重要性は認めて、伝道者が信徒の献げもので生活することを、当然であると語っています。

  もう一つの献げものは、信徒の必要のための献げもの、つまり、困窮している信徒たちのための献げもので、神の家族の助け合いです。この背後には、イスラエルの人々が昔から旧約聖書に教えられ、共同体として助け合って来た歴史がありました。ですから比較的容易に教会の中に持ち込まれ、誕生して間もない頃から盛んに行われていました。パウロはその助け合いを、地域協会の枠を超えた多教会間の協力に発展させ、国境を越えたインターナショナルな働きとして行きました。飢饉にあって苦しんでいたエルサレムの教会を助けるために奔走し、供出の働きを「恵みのわざ」と呼んで大切にし、それに命をかけたのです。


V. 献げものの祝福

  基本的に献げものは神への感謝と信頼の表現です。たとえ 明日の食べ物がないような状態でも、神が必要なものは与えて下さると信じて献げるのです。神は、神の祝福に感謝を捧げる者を喜んでくださいます。多くの人々が神の祝福を無視して感謝もしない中、素直に感謝する者たちを特別に愛してくださるのです。

  さらに神は、神に頼る者、神を信じて行動する者の信頼を喜び、それに答えてくださいます。ですから基本的に、感謝と喜と信頼によって献げ物は神に喜ばれ、神の祝福を受けるのです。神は献げ物をする者が正しい理解と間違いのない信仰を持っているかということより、神に感謝をしているか、神を信頼しているかの方を大切にしておられるのです。

  ですから、十一献金を現在の私たちにも適用されるべき定めだと、「間違って」理解し、その理解に立って十一献金をしてきた人の十一献金が無駄になることはありません。神はそこに表された感謝の気持ちと信頼を受け入れてくださり、豊かに祝福して下さるからです。(十一献金は本来、宗教税も含まれた国家の税金だったのですが、現在の私たちは全く異なったシステムの中にいます。税金は献金とは全く別のものとして国や地方自治体に納めていますので、教会には税金を除いた分を献げるのが順当です)

  神は今、互いに助け合う「恵みのわざ」としての献げ物を最も大切にしておられます。それは互いに愛し合うことにほかならないからです。新約聖書の献げものの基本は、十分の一だけにとどまらず、自分にできる最善最大の献げ物をすることです。(現在、多くの牧師が金銭欲や物欲に負けて、信仰の名を用いて信徒たちを洗脳し、献金を強要して金集めに奔走しています。これは現在の偶像礼拝で、恥ずべきことです。《コロサイ3:5》 本来の献金の姿を取り戻さなければなりません)

  私たちは今、生かされ、必要を満たされ、守られているだけではなく、永遠の命という尊い宝までいただいていることを、いつもはっきりと思い起こし、感謝と喜びをもって、最善最大の献げ物をしましょう。

  最善最大の献げものは金品にとどまりません。それは、私たち自身です。



秋深まる裏山に出かけました。

            廃屋の 屋根に潰れた 柿ひとつ







 



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2011年10月17日

聖書に生きる


               ヨシュア記1:5〜9

  信徒を訪問しているとき、道端に咲くシオンの花を見つけました。この周辺では珍しいので、手折って小さな束を作り車のなかに持ち込んだのですが、思った通り、たちまちしおれてしまいました。野菊と呼ばれる仲間の花は、意外に生命力が弱くすぐにしなびてしまうところに、かえって可憐さがあるのかもしれません。


  どんな植物でも、手折られて放って置かれると、たいていはやがて枯れてしまいます。始めから、ちぎられて増えるように造られている,,肉植物でもない限り長続きはしません。水と栄養を取ることができなければ、結局は死ぬことになるのです。


 クリスチャン信仰の命にも、同じことが言えそうです。力強い信仰生活を続け、神様の祝福の中に生き、実を結ぶには、幹につながって水と栄養を得ていなければなりません。イエス様は、「私はぶどうの木、あなたがたはその枝です」とおっしゃり、しっかりとつながって実を結ぶようにと励ましてくださいました。(ヨハネ15:1〜10) 旧約聖書のヨシュア記にも、同じ意味のことが違う言葉で教えられています。


 T. 律法を暗記する   律法が書かれた時代には印刷機はおろか、紙さえありませんでした。多分、石や陶器のかけらが、主に用いられたのでしょう。「律法の書」と呼ばれたモーセの五書は、その長さから、多分、普通「羊皮紙」と呼ばれる、動物の皮が用いられたかと思いますが、作り方が非常に難しく、とても高価でした。まだまだ、質の悪い羊皮紙だったに違いありません。


 そんなわけで、律法を書き写すのも困難で、当時はたった一巻しかなかったのです。(もっともモーセの五書は長いために、何巻もの羊皮紙が必要でした) 普通の人がそれを手にして読むことはできませんでした。大勢が集まって、民の指導者たち、たとえば祭司などが大声で読むのを聴き、それをみんなで復唱して覚えたのです。聖書の多くの部分は、読まれるために書かれたのではなく、記憶されるために書かれたことを知っておきましょう。だから、ある部分は特に暗記されやすく書かれているのです。



 いまでは、とても安価に手に入るために、何冊も買われて、タンスの上に置きっぱなしにされている聖書とは、取り扱われ方が違いました。印刷された聖書を持っているだけで満足して、あまり読んでいない人が多い上、アイ・パッドなどの電子機器で「持ち歩いている」人さえ少なくなくない昨今すが、聖書は本来、所有するものではなく、暗唱して頭と心に持ち歩くものなのです。


 ヨシュア記はその暗唱の仕方まで教えています。つまり、律法の言葉を口から離すことなく、昼も夜も口ずさむのです。読んだだけで終りではありません。理解しただけでも不十分です。納得したとしてもまだ足りません。暗記してしまうのです。翻訳された日本語聖書を暗記するのは、なかなか大変です。ヘブル語やギリシヤ語の聖書は、暗記しやすく書かれていたのでしょうね。現代日本語は特に暗記には向いていません。その点、文語訳はよかったですね。不平を言っても始まりません。元来、聖書の多くの部分は、暗記されるべき書物だったのですから、私たちも暗記したいものです。


 どれほど聖書を読み、理解していても、心に残っていなければ、日常の生活で役立つことは少なくなります。そこで聖書は、律法の言葉を書いて壁や柱に貼り付け、いつでも読んで暗記できるようにしておくことまで、勧められているのです。


U. 聖書に書かれていることを忠実に守る   


 律法の書は、暗記されただけではダメなのです。暗記はあくまでも実行へのプロセス、過程に過ぎません。東京に行くと言って出発して、大阪あたりでふらついていてはなりません。東京はまだまだ先です。律法の教えは、それを読んだり理解したり暗記したりしただけでは、目的地に到達していないのです。律法は、あくまでもそれが守られて、生活の中で具体的に実行され、生かされて、価値を発揮するものです。(ヤコブ:22〜25)

 
 律法に書かれていることを実行することは、容易ではありません。ところによっては、もう時代錯誤になっている教えもありますので、その精神を活かすことを考えなければなりません。ただし、難しいとは言え、聖書は、あくまでも実行されるとき、力を発揮するのです。


 ヨシュア記に記されている約束は、実行するなら「行く先々で栄え、成功する」ということです。神が祝福をもって伴ってくださるのですから、おそれおののくことなく生きることができるのです。
 
 ところが律法の書を含めて、聖書を読む多くの人たちは、これは難しい、不可能だ無理だと言って、初めから実行しようとなど思いません。それで、聖書を知っていても、神様の祝福を知らない人になってしまうのです。



V. 命につながる   


 聖書を読んだだけでは、キリストにつながることにはなりません。聖書を理解しただけでは、命につながることはないのです。あくまでも、聖書の教え、あるいは律法を守って行うことが肝心なのです。(律法という表現は、狭義にはモーセの5書ですが、広い意味では旧約聖書全体をさしています。現代では、その精神を新旧約聖書全体に適用しています)


  ところが聖書の教えというものは、どんなに頑張っても実行不可能です。人間の能力を超えていているのです。そために、本当に実行しようとしたら、絶対に神の力、神の助けが必要になります。自分には律法を守ることは不可能であること認めて、諦めてしまうのではなく、神の助けを求めて祈ることが肝要でです。そして、神が助けてくださると信じて聖書の教えを実行するのです。


  すると、信仰に答えて下さる神様は、私たちが聖書の教えを実行していくことができるように、いろいろな形で助けてくださるのです。不完全で弱い人間であるために、何回もしくじることでしょう。でも、しくじりも含めて、神様は教え助けてくださり、少しずつ、聖書に生きることができるようにしてくださいます。それが信仰の体験であり、自分が命につながっていることを知る手だてです。神様につながり、キリストにつながり、神の祝福を感じ取りながら、花を咲かせ実を結ぶ人生を生きることになるのです。


  このような体験を積み重ねているクリスチャンは、なかなかしおれません。枯れることがないのです。常に新しい命を受けているからです。礼拝会を数回休んだ程度で、疲れるような信仰ではなくなります。少しくらい聖書を読めない日が続いたからといって、へたばるような信仰ではなくなります。礼拝会に出ることは大切です。聖書を読むこともとても重要です。しかし、命につながることはもっと重大なことなのです。


 聖書の教えを実行することによって、神様につながっていることを実感しながら、日々、生き生きとした生活をして行きましょう。
 
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2011年10月16日

招きに応じて

マタイ4:18~22

 キリストの弟子たちはいろいろな背景を持っていました。それぞれの人生を、目的をもったり待たなかったり、張合いを持ったり持たなかったり、とにかく生きていたのです。そこにキリストが現れ、「私に従って来なさい。あなたがたを・・・・・にしてあげよう」とお招きになり、新しい生き方、新しい人生、新しい目的を与えてくださいました。



T.招かれた人たち  


 ガリラヤ湖のほとりで招かれた人々は、たまたま無学の漁師たちでしたが、キリストはあらあらゆる種類の人々をお招きになりました。老若男女、貧富、貴賤、有識無学を越えた者たちがキリストのもとに集まってきたのです。なかには国粋主義者がいて、いつもローマに反乱を起こすことばかり考えていました。反対に傀儡政権側に属して、日夜、宗主国ローマのご機嫌伺いばかりをしていた者たちもいました。こちらの者は厳格な宗教の派閥に属し、あちらの者はふしだらな生活をしていました。田舎で粗野な生活に慣れていた者もおれば、都会生活で洗練された者もいたという具合です。


 キリストは招きの対象を詮索しませんでした。それは、キリストが「作ることのできる」方だからです。日本語では、このところは「してあげよう」と訳されていますが、文字通りには「作ってやる」という意味です。私たち人間は、出来上がった人間を招きがちです。能力も学歴も、経験も鍛錬も積んだ人間を求めます。しかし、キリストはどんな人間をも、キリストがお望みになる人間に作り上げてくださることができるために、選り好みしないで招くことができるのです。
 私たちもキリストの招きを受けて、キリストに従うものになっていることの、大きな意義を考えてみましょう。キリストはいま、私たちを作り変えていてくださるのです。



U.招かれたわけ  


 招かれた人たちには、彼らの生活、彼らの人生がありました。けれどもキリストは、もっと素晴らしい生き方、もっと有意義な生き方を、彼らに与えようとされたのです。それが「人間を獲る漁師になる」ことでした。キリストはなれるようにしてくださるのです。


 「人間を獲る漁師は」、招かれた人たちが漁師だったから使われた表現です。もしも大工だったら、「神の家を建てる大工」だったかもしれません。もしも農夫だったら、「神の農園で働かせてやろう」だったでしょうか。要するに神の役に立つ働きをさせ、最も有意義な目的に人生を費やすことができるように、してやろうということでした。


 ガリラヤ湖の漁師たちは、キリストに出会わなければ、ただの漁師として一生を終えていたことでしょう。それも良いことです。でも彼らはキリストの招きを受け、キリストの弟子となることによって、自分の幸せをつかむだけではなく、神の栄光のために役立つ人々となりました。私たちも、たいした人生を送ってきた訳ではないかもしれませんが、キリストの招きを受けました。私たちもまた、キリストの力によって「作られ」、神の働きをすることができるのです。キリストが私たちを招いてくださったのは、私たちが最も輝いた生き方をし、神の栄光に役立つ生き方をするためなのです。


 
V.招きへの応答  


 キリストは、いろいろな人の様々な人生に応じて、招きの声をかけてくださいました。人生に疲れ、行き悩んでいる人たちには、「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませて上げよう」とおっしゃり、人生の迷路に迷い込み方向を誤ってしまった者には、「私についてきなさい」と、声をかけてくださいました。招きの状況は異なり語られた言葉は違っても、招かれたわけは同じです。神様のご用に役立つ、本当に意義のある生き方ができるようになるためです。


 ただこの招きは、招きを受けただけではだめなのです。招きは、招かれた人がその招きに応じることによって、はじめて効力を発揮するからです。招きを受けても、招きに応じなければ、なんにもならないのです。


 キリストの招きを聞いたならば、直ちにその招きに応じて、キリストに従うことが大切です。ガリラヤ湖畔の弟子たちは、キリストの招きを受けると、迷わず網を捨ててキリストに従いました。その決断力、その潔さが、キリストの優れた弟子となる条件だったのです。


 キリストの招きは、一生に一度とは限りません。クリスチャンとなってからも、新たな招きが繰り返されます。招きのみ声には、直ちに応じる心を持ちましょう。







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