2011年11月03日

互いに愛し合うこと

  
 マタイ22:34〜40     


 律法(旧約聖書)の中で最も大切な第一の戒めは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、神を愛する」ことです。そしてそれと同じように大切な第二の戒めは「自分を愛するように隣人を愛する」ことです。(マタイ22:34〜40)イエス様がお教えになったとおりです。

 ところがイエス様は、私たちイエス様に従うものには、さらに新しい戒めを与えてくださいました。それはイエス様が「私たちを愛してくださったように、私たちも互いに愛し合う」ことです。律法の戒めとイエス様が与えてくださった新しい戒めは、共に、愛することについての戒めで、その点では共通します。

 でも、律法の戒めでは愛する愛の基準は、自分を愛する愛、自己愛です。はなはだ不完全で揺らぎうつろい色あせ頼りにならない愛です。それに対して、新しい戒めの愛の基準はイエス様が私たちを愛してくださった、絶対に変わらない愛、自分を捨てる愛、徹底した自己犠牲の愛です。

 また律法の戒めは、単に愛することであり、一方的な愛を求めています。それは、罪に満ちたこの世の人間関係では、愛しても報われることがない場合が多く、愛されることを期待していては愛することができないからです。だから、悲しいことですが、本当の愛は見返りを期待しない一方的なものだと言われるのです。

 それに対し、イエス様が与えてくださった新しい戒めは、相互愛、互いに愛し合う愛です。イエス様に従う者たちは、たとえまだ不完全な人間であっても、互いにキリストが模範を示してくださった愛を体験し、良く知っています。また、自分のうちに住んで下さっている聖霊に助けられて、愛することができる力も頂いています。ですから、この新しい戒めは、この世に生きる普通の人々に与えられたものではなく、イエス様に従う人々、クリスチャンたちの群れである、教会に与えられたものなのです。

 教会は、聖霊の内住をいただいて、内側から聖霊の力によって助けられています。罪によって無力になっていた愛し合う力も、新しい命を与えられ、ずっと増し加わるのです。

 教会は互いに愛し合う共同体です。教会の特徴は互いに愛し合うことであり、互いに愛し合うことが出来るようにされているのです。愛はすべての律法を全うするものです。本当に愛があり、愛が充分に発揮され表現されているならば、ほとんどの律法は不要になります。良い規則は、愛が滑らかに行われるために作られているのです。
 
 ただし、愛は単なる感情ではありません。心が暖かくなり、誰かを好ましく思うのも「愛」の一部ですが、それはどちらかと言うと「好き」に近い感情です。聖書の語る愛はそのような情緒的な愛ではなく、自分の意思を持って行動する愛です。愛するのだという決意を持って、好きではない人に対しても何かをする愛であり、好きな人にも何かをしない愛です。
 
 たとえば、愛とは赦すとこです。愛とは喜んで赦されることです。愛とは受け入れることです。さらに愛とは他の人の幸せを願い、そのために何かをすることです。人を傷つけ、苦しませ、悲しませることをしないと決意し、絶対にしない強い意志です。愛とは喜ぶものと共に喜び、羨むことを絶対に拒絶することです。愛とは、他人を助けるために、自分を犠牲にすることです。
 
 クリスチャンは決して完全な人間ではありません。教会は不完全な「赦された罪人」の集まりです。ですから、誰もが強い愛をもって、常に愛に生きているわけではありません。ところが、教会には愛し合うことが出来る資質、力、性格、あるいは要素とでも言うべきものがあるのです。クリスチャンたちはみな、自分の古い罪に死に、新しいキリストの命に生かされているため、原則的に、愛することが出来る人間に変えられているのです。キリストは私たちに愛を教え、愛の模範を示してくださっただけでなく、愛することが出来る力、能力、思い、意思、行動力、決断力を与えて下さっているのです。
 
 とはいえ力や能力は、実際にそれを用いてみなければ、力があることにも能力が与えられていることにも気づきません。本当のところ、多くのクリスチャンがそれに気づかないまま生きています。多くの教会が宝の持ち腐れをしています。宝が腐って失われています。
 
 自分がまだ救われていなかったときの無力感が強烈に残っていて、トラウマになっています。その記憶にしばられたまま、新しい命に思い当たらず、新しい力に気づかず、惰性のまま、以前と変わらない我まま勝手な生活を送っているのです。
 
 私たちの教会は、愛に生きる教会、愛し合う教会であるようにと心から願うものです。禁欲的な「聖く正しい品行方正の教会」になるもの悪くはありません。でも、それよりもっと大切なのは、少々の間違いを犯しても落ち込まず、愛し合う教会になることです。

 初代の教会は、貧しい信徒たちを助ける働きで愛を具体的に表現しました。金持ちは、自分の持ち物を売り払ってでも、貧しい信徒たちを助けました。そのような活動が、ひとつの教会の枠を越えて教会同士の助け合いとなり、さらには国教を越えたさまざまな民族の教会間の助け合いに発展したのです。これを使徒パウロは「恵の業」と呼んで、命を賭けるほど大切にしていました。

 私たちの教会もいま、大地震で痛んでいる教会、傷ついている教会のために献げ物をしています。さらにこれを続けていきましょう。日本の習慣では、「お返し」というのがありますが、互いに愛し合うことは、お返しを期待するのではなく、愛を受けた人がいつか愛する機会を与えられて、その愛をさらに新しく広げ、発展させていくことを期待するのです。

posted by まさ at 11:17| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。