2011年12月18日

キリストのように

 

        ヨハネ20:21ピリピ2:3〜8,

 12月になると、何となく気ぜわしく、慌ただしくなります。特にクリスチャンにとっては、大切なクリスマスを迎えるためにますます忙しく、ついつい、神様のこともすっかり忘れて、教会の行事に追われてしまいがちです。でも、このクリスマスほど誤解されている行事はありません。商魂たくましい一般世界のことはともかく、教会の中の話です。正しいクリスマスの意味を理解し、正しいクリスマスの過ごし方をしましょう。それは、私たちがキリストのように遣わされていることを知り、遣わされた者としてふさわしく生きることです。


T.  他者のために自分をお捨てになったキリスト

 キリストは神と等しい方、神であられた方です。創世記の第1章1節には、神が天地をお創りになったと記されていますが、新約聖書は、キリストが存在するものすべてをお創りになったと、教えています。(ヨハネ1:1〜2、コロサイ1:15〜16、ヘブル1:2)キリストは天地を創造してくださった神なのです。無限の栄光と力と権力とをお持ちのお方だったのです。

 ところがこのお方は、罪に汚れて滅びの中にいる人類を哀れみ、彼らを救うために、働いてくださいました。人類を救うためには、人類の身代わりになって罪の代価である死を、ご自分の身に引き受け、その血潮で罪を洗い潔めなければなりませんでした。キリストは死を目的として、すべてを捨ててくださったのです。そして罪に汚れ、あらゆる弱さをまとった人間の姿をとってくださいました。

 キリストは自分の失敗や、自分の益のためにではなく、人間の救いのために、他者のためにすべてを捨ててくださったのです。


U. 人の姿をとり人として生きて下さったキリスト

 キリストは、人のために死ぬ目的でおいでになりました。それがクリスマスです。でもそれだけではなく、キリストは人となり、人として、人と共に住み、人の生きる困難さをご自分で味わうために、どこにでも居そうな貧しい人として、生きてくださいました。まさにインマヌエル、われらと共に居て下さる神です。

 キリストは神としての力を、自分のためにお用いになることはありませんでした。貧しい大工の長男として成長し、早く亡くなった父の代わりに、一家の大黒柱として汗を流して働き、毎日の糧を稼いでおられたのです。暑さに疲れ寒さ凍え、病気もし怪我もしました。貧しい食事に耐えながら、寡婦となった母と、合計人以上の弟や妹たちの面倒を見ておられたのです。
それは人々が、人間の悩みと痛みをつぶさに味合われた方として、キリストを見ることができるように、そして、自分たちの苦しみを分かってくださる、同情してくださるに違いないと、キリストのもとに来ることができるようにするためでした。


V. 十字架で死んで下さったキリスト  

 十字架の上でキリストは、すべては終わったと言って息をお引き取りになりました。これは、すべてのことが失敗に終わったという意味ではありません。キリストは、なすべきことはみなやり遂げたとおっしゃったのです。キリストがこの世界に来てくださった目的が、十字架の死によって達成されたのです。キリストはその目的に向かってひたすら前進なさいました。このキリストの死によって、人間の救いの道が開かれたのです。キリストは、旧約聖書に予言され、人々に待望されていた、救い
主となられたのです。


W. キリストが遣わされたように遣わされた私たち 

 キリストの思い、キリストの態度、キリストの行動、キリストの使命は、すべて私たちの人生の模範です。

 私たちはキリストが遣わされたように、この世に遣わされているのです。キリストの使命を遂行するキリストの大使として、この世に遣わされこの世で生きています。キリストと同じように自分を低くして、ほかの人のために自分を棄て、人々と一緒に苦しみながら生きるのです。このキリストに倣って生きる使命を理解すると、この世での私たちの様々な苦しみが、単なる苦しみではなく、大きな意義を持っていることに気づきます。私たちは苦しみの中に生きている人たちに福音を伝え、救いに導き入れるために、共に苦しんでいるのです。
 
 人々の救いのためにキリストが十字架を担ったように、私たちも十字架を負って歩みます。自分の為にではなく、ほかの人のために積極的に犠牲を負ってあゆみます。
 
 キリストのすべての行為が、人々に救いをもたらすためであったことに学び、私たちも、生きる限り福音を語り、救いを伝えて行きます。私たちには、福音が委ねられているのです。(Uコリ5:20)


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今日ダビデの町に救い主がお生まれになった

 

              ルカ2:11

 クリスマスにはいろいろな深い意味があります。今日は歴史的な面から考えてみましょう。聖書は歴史的な書物であり、神様の救いの歴史が記されています。この神様の救いの歴史を、厳格にまた事細かく分けて考えすぎる、極端なディスペンセーショナリズムという間違いもありますが、歴史的な感覚をもたないで読むと、理解できなくなるのが聖書です。


T. 旧約時代の、神様のお取り扱い 

 旧約聖書と新約聖書を読み比べてみると、同じ神様について記されていながら、何かこう、非常に異なったところがあるのに気づきます。その異なっている部分の一つが、神様の人間に対するお取り扱いです。

 旧約聖書の時代、神様の人間に対するお取り扱いは、イスラエルという民族に対するものに焦点が当てられていました。決して個々の人間が忘れられていたわけではなく、極めて個人的な事柄も記されていますが、やはり、神様はイスラエルという民族を主に取り扱い、そのイスラエル民族の取り扱いもまた、全人類の救いのために用いられる民族という視点で行われています。個々の人々の物語は、イスラエル民族と言う範疇(はんちゅう)で大いに意味を持つものであり、イスラエル民族へのお取り扱いも、全人類の救いのための準備として、大きな意義を持つのです。

 このような中でイスラエル人たちは、自分たちこそ神に選ばれた特別に貴い民族であるという自負と奢(おご)りを持ってしまい、他の民族を見下げ、差別をするようになりました。そして自分たちが国家を失い、流浪の民として、あるいは大帝国の植民地としての屈辱をほとんど一千年も続けて来たことを悲しみ、旧約聖書に約束されていた救い主の出現を、今や遅しと待ち望んでいたのです。

 イスラエル人たちは、自分たちが全人類の救いの手段として選ばれたという、重大な事実を見落と
てしまい、自分たちの民族的救い、国家的な救いだけを期待し、そのための軍事的救い主、政治的な救い主を待っていたのです。旧約時代は、神様のお取り扱いが、民族や国家が主な対象であったために、人々の救い主への期待もまた、民族的、国家的なものとなってしまったのでした。


U. 新約時代の、神様のお取り扱い 

 ところがイエス様は、非常に個人的な温かみをもった救い主としておいでになりました。その誕生の物語一つをとっても、おおよそ、民族とか国家という感覚にはふさわしくありません。事実、イエス様は、ひとりひとりの人間の救いのために来てくだいました。その公のお働きの開始の時、イエス様は、「貧しい者に福音を告げ知らせる」という、イザヤの預言が成就したと宣言されたのです。そのお働きには、民族だとか国家というような感覚は、ほとんど見当たりません。
 
 では、神様の旧約時代のお取り扱いは、一体何だったのでしょう。それは、イスラエル民族が救い主を誕生させる民族として、また、律法と教えを与えて、神のみ心を示すための民族として選ばれたということに関わります。悪魔はイスラエル民族を滅ぼして救い主を誕生させないように、また神の律法が虚しくなるように画策し、神はその民族を悪魔の手から守り助けるために、あらゆる努力をしてくださったのです。それが旧約聖書に記されている歴史の筋書きです。イスラエル民族が選ばれたのは、彼らの救いのためだけではなく、彼らの祝福のためだけでもなく、彼らを通して救いが全人類に及ぶためだったのです。

 したがって、新約聖書に表されている神の姿は、名もなく小さく弱い人間に対する、深い思いやりと情けをお持ちになったお方です。その神の姿を現してくださったのが、子なる神、イエス様の生き方とお働きでした。神は、すべての人間ひとりひとりを愛し、彼らに救いを与え、永遠の命を持たせようとして下さっているのです。神の愛の対象、救いの対象はあくまでも、始めからすべての人間であり、ひとりひとりの人間でした。もちろん、その中には私たちも含まれているのです。
 
 では、国家とか民族に焦点が当てられていた旧約の時代、塵芥のように滅ぼされていった多くの人々、差別と虐待の中死んでいった人たちはどうなったのでしょう。単なる人間の歴史、人間の働きならば、余りにも不公平です。しかし、神は決して差別をなさいません。永遠という時間の中で、神はすべての人に公平に報いてくださるのです。

V. 新しい時代の、神様のお取り扱い  

 今は新約の時代です。でも、このような時代がいつまでも続くわけではありません。聖書によると、「恵みのとき」と呼ばれるこの時代にも終りが来るのです。

 旧約の時代、イスラエルの人々は民族的な救い主、国家的な救いを待ち望み、軍事的また政治的救い主の出現を夢見ていました。それがイエス様に対する熱狂的な期待に結びつき、イエス様を王様にしようという謀議にまで発展したわけです。ところがいつまでたっても、イエス様が軍事行動を起こす気配がないため、その期待と夢は、裏切られたという失望と憎しみ変わってしまいました。それが、「十字架に付けよ」と叫んでイエス様を死に追いやった、多くの人々の偽らざる気持ちでした。

 イスラエル人たちの期待は、確かに間違っていました。しかし、完全に間違っていたのでもありません。イエス様は、ひとりひとりの救い主、魂の救い主であると共に、最後にこの世界を平定し、完全な神の国を作り上げて下さる王様なのです。ここに、民族とか国家とかいうものと、個々の人間の取り扱いの完全な一致が実現するのです。

 クリスマスにお生まれになったイエス様は、神の位をお捨てになった神、神の力と権威を放棄なさった神、人の姿を取り、人と共に住み、人の苦しみを味わい、人の重荷を担ってくださった神です。しかし、やがて再臨の主としておいでになるイエス様は、力強い勝利の主です。すべての敵を打ち破り、あらゆる民族、国家、組織を作り変え、すべての人々を公平に裁き、この世界を治めて下さる救い主なのです。

 イスラエル人たちはこの勝利の救い主と、馬小屋に生まれ、飼葉桶に寝かせられた謙卑(けんぴ)の救い主を、取り違えてしまったのです。私たちは今このクリスマスのとき、私たちの救いのために神の姿を捨ててくださった主に感謝し、やがて勝利の主としておいで下さる救い主に、大いに期待しましょう。またこのクリスマスのイエス様のお姿に倣い、自らを低くし、神と人に仕えるものとなりましょう


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2011年12月17日

神に与えられたいのち



              創世記2:7

 私たちはいま生きています。生かされていることを喜び、生かしてくださっている方に感謝しながら、毎日を生きていきましょう。草も木も鳥も蝶も、与えられた命を精一杯生きていますが、私たち人間に与えられた命は特別な命です。人間らしい、特別な生き方をしていきましょう。

T. 人間の命  

一言で命と言っても、様々な命があります。宇宙の成り立ちや動きを命と捉える人もいます。顕微鏡で見なければならない微生物の命から命と考える、生物学的な命もあります。あるいは、動物と植物の命を別のものであると判断する人たちもいます。意識を持つ動物の命は別だと主張することも可能です。ところが、それらすべての命と人間の命は、はっきりと異なっているものです。もとより、人間の命には生物学的な命があります。そういう意味では、人体の60兆の細胞一つ一つが命を持っているのですから、60兆の命の集合体であるともいえます。ところが意識を持つ動物の場合は、単に集合体というのとは別の命を持っていると、考えるべきかもしれません。ある人たちは自己意識を持ってこそ、本当の命だと言います。単に命と言いますが、本当に難しい言葉、理解が及ばない深い言葉です。
 
ところで、人間の命はこれらすべての命とも異なっています。単に高度だとか、最も発達した命だとかいう以上のものです。聖書は、人間だけが特別な命を持っていることを教えています。まず、人間の命は、神の命を直接吹き込まれて生きるようにされたものです。これは、人間がどのように生きるものとされたかという、手順が教えられているものですが、人間が特別な方法で生きるものとされたことがわかります。一方、1章26〜27節では、与えられた命がどのようなものであるかが教えられています。それは、神に似たものとして創られた命です。神の命に似ているのです。神と同等でも、同様でもありません。多くの共通点を持つという意味です。
 
どのような点が共通なのか、ここで深く述べることはできませんが、まず、それは霊的な命だということです。生物学的な命とは異なる、霊的な命です。聖書は、神は霊であると教えています。その神と同じ性質の命を与えられている人間は、神を感じ、神を知る能力を持つ命を与えられているのです。人間だけが祈り、神を礼拝し、意識を持って、神を賛美するのです。この命を大切にしましょう。


U. 失われた命  

神に似せて創られた人間は、神に対して罪を犯したことによって、一時的に神から追放されてしまいました。神から遠ざけられ、神との交わりを失った人間は、神との共通点である霊的な命をだんだん不活発にし、神の命を受け続けることもできなくなりました。これが、霊的に死んだ状態です。
 
霊的に死んだ状態の人間は、神との交流がないため、霊的な人間としての命を満喫することができなくなりました。食べて寝て仕事をして繁殖をするだけの生き方では、満足も納得もできないのです。そのために人間はさらにいろいろなことをやって、人間だけの喜びを得ようと、人間だけに出来ることをやってきましたが、本質的に、人間は満たされないまま、納得できないままなのです。神との交わりで得ることができる人間らしい喜びは、他のどのようなものによっても、得ることができないのです。命を謳歌するような生き方ができないのです。

V. 再び与えられる命  

ところが主イエスは、新たに命を与えるために来てくださいました。失われた神との交わりを回復し、神の命が再び人間の中にみなぎるようにしてくださったのです。人間と神との間を隔てていた罪を、イエス様は十字架の上で罰し、取り除いてくださいました。そのために、今人間は神に信頼して近づくことが出来るのです。神に祈り、神に感謝し、神に賛美をする生き方をしていると、すっかり活力を失っていた人間の命の中に、神からの命が流れ込んでくるのです。
 
罪のままに罪の中に生きていると、罪の報酬を受け神の祝福を受けることができず、惨めな人生を生きるだけではなく、ついには永遠の滅びの中に入れられ、人間としての命を回復する道を失ってしまうのですが、神は、み子キリストによって、人間が神に近づけるように、すべてを整えてくださったのです。ですから私たちは、いま、神との交わりを大切にして生きるのです。

 しかし、この世界で生き続ける限り、どれほど祈り、感謝し、賛美の生活を続けても、私たちは罪の影響の下で、不完全な生き方を続けなければなりません。ところが、私たちにはすでに永遠の命が与えられています。この命は今の神との交わりの中にあって、この世界でもあらゆる意味で力を発揮しますが、やがての甦りのときに完全なものとされ、欠ける所のない神との交わりを続けることができるのです。そのとき、私たちの体も完全に健康なものとされ、私たちの心もイエス様のように美しいものに変えられるのです。

 私たち人間は、最初に創られた時のようになり、永遠に神との交わりを喜び楽しみ、神に創られた自然の中に生きるのです。

 神に与えられた命、イエス様によって回復された命を、力いっぱい謳歌して生きていきましょう。


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