2012年04月28日

先を見越してお働きになる主・・・・サマリヤの女の物語から

        
   ヨハネ4:1〜42、使徒8:4〜25           

 私たちは、明日、自分に何が起こるかも知らないで生きています。だから心配もします。不安にもなります。希望を抱いたり野望を持ったりもできます。明日のことを知らないというのは、私たちには良いことなのかも知れません。特に私たちクリスチャンは、明日をみ手に治めておられる方を信頼して生きているのですから、心配をすることなく、期待を持って明日を待つことが出来ます。

T. あらかじめ小さな女を知っておられたイエス様   

 ユダからガリラヤへ抜けるには、普通、ヨルダン川に沿って北上する道が使われました。ところがあるとき、イエス様は、わざわざあまり人の通らない危険な道を選んで、ユダヤ人からは蔑まれていた、サマリヤ人の居住区に立ち寄られたのです。それは、ちっぽけなひとりの女に会うためでした。イエス様は、会った事もないこの女をあらかじめ知っておられ、この女を用いて大きなことをしようとしておられたからです。
 
 この女は、人々からあまり相手にされなくなって久しく、「ひっそりと」と言うより、身を隠すようにして生きていたようです。他の多くの女たちが、井戸端会議に歓声を上げる涼しい朝夕を避けて、あえて真昼の炎天下、井戸に水を汲みに来ていたからです。いろいろな事情があったにせよ、5人の男と結婚し、このとき一緒に住んでいたのは6人目の男であり、しかも夫ではなかったというのです。どう考えても、悲しい人生を歩んできたようです。しかも、彼女とイエス様の会話はちぐはぐで、噛み合っていません。女は、あまり血のめぐりが良くなかったようです。
 
 普通なら、社会の片隅に追いやられ、人々からさげすまれ、やがては忘れられるように死んで行くのが、彼女の人生だったと思われます。ところがこの女のことを、イエス様はあらかじめ心に留め、わざわざ危険な道を選んで訪ねてくださったのです。ユダヤ人からは混血だからと差別され、女だからと低く見られ、うすのろだからと馬鹿にされ、散々いいように他人(ひと)に利用され、落ちるところまで落ちてしまったこの女を、イエス様はひとりの大切な人間として取り扱ってくださっただけでなく、ご自分の重大なお働きを担わせようとして、訪ねてくださったのです。

U. あらかじめ小さな女の行動を知っておられたイエス様  

 この女は、やはり相当おろかだったようです。イエス様がこれほどあからさまに、ご自分が救い主であるとおっしゃったのに、良く理解できなかっただけではありません。「もしかしたら救い主に会ったのかもしれません」と、すっかり興奮して町中を駆け巡り、だれかれかまわずに語ったのです。「誰にも会いたくない、誰とも口をききたくない」と思っていたのに、「この方は、私のしてきたことをみな言い当てました」と、わざわざ恥の上塗りをするようなことを言って回ったのです。
 
 この女の愚かな行動をイエス様はあらかじめご存知だったと思われます。それも計算済みと言うところです。イエス様にお会いしなかったならば、この女の愚かさは、彼女を惨めな女にし、惨めな女のままに終わらせたことでしょう。しかしイエス様は、この女の愚かさを用いて大切なお働きをしてくださったのです。欠点も弱点も汚点も失点も、イエス様は神の栄光のために、そして人々の救いのために、用いてくださるのです。

 町中の人々が、女の言うことを聞いてイエス様のところにやって来ました。この女がわざわざ自分の恥ずかしい生き方を引き合いに出してまで、「救い主かも知れない方がいらっしゃるから、見に来てください」と語ったのには、インパクトがありました。多くの人たちがやってきて、直接イエス様に会い、イエス様の口から聞いて、イエス様を信じたのです。

 ただ、駐屯したアッシリヤ人兵士の血が混じったサマリヤ人たちは、純粋なユダヤ人たちからは差別され、エルサレムの神殿に登ることもありませんでしたので、神についての知識も律法についての知識も、まったく不充分でした。そのため、「信じた」と記されたイエス様に対する彼らの信仰が、どの程度のものだったかは不明です。きっと、まだまだ不充分なものだったでしょう。純粋なユダヤ人たちの信仰さえ、おおくの場合、満足できるものではなかったのです。

V. あらかじめ小さな女の行動がもたらす結果を知っておられたイエス様  

 多くのサマリヤの人たちがイエス様を信じました。でも彼らは、この女のおかげでイエス様を信じるようになったと考えるのは、面白くなかったようです。「お前が話してくれたからではなく、俺たちが直接本人から話を聞いたからだ」と、言いたかったのです。それほど、この女は低く見られていたのです。

 ところがイエス様はこの女の愚かな行動が、もっと大きな神様の働きに繋がることを、最初からご存知だったに違いありません。この出来事から数年後、イエス様は十字架で死に、甦って天にお帰りになり、代わりに聖霊が来て人々の中に住んで下さるようになりました。聖霊は人々を用いて、神の働きをお始めになりました。聖霊に用いられた人の一人、ピリポはサマリヤの町を訪れて伝道をしたのです。すると、短いわずかの間に、多くの人々がイエス様を救い主として信じ、やがてみな洗礼を受けるようになりました。後にサマリヤのリバイバルといわれる出来事が起こったのです。(使徒8:5〜25)

 サマリヤのリバイバルは、ピリポの伝道だけによって起こったのではありません。彼の大胆さと雄弁さがもたらした結果でもありません。聖霊が彼を用いてお働きになったのです。でもその背後には、数年前に起こったあの出来事、愚かで浅はかな女の行動とその結果が、下地としてあったのです。だからこそ、このような働きが可能になったのです。イエス様は、このことをあらかじめご存知で、サマリヤを訪れ、井戸端で、誰からも相手にされない「小さな女」に話しかけられたわけです。

 私たちの人生も、人様に聞かせるような代物ではありません。サマリヤの女に良く似ています。それほどひどくはないと言ってみても、他人(ひと)様に誇れるようなものではありません。また、明日は何が起こるかわからない毎日を過ごしています。でも、イエス様は私たちをも用いて、神様のみ業行ってくださいます。愚かな私たちが、愚かな方法で、それこそ馬鹿丸出しでも、イエス様のことお話しすると、それを、イエス様は大きく用いて、大切な働きを成し遂げてくださるのです。 

 イエス様は、天地の造られる前から私たちをご存知で、み心のままに選び、救ってくださいました。私たちがイエス様を知る前から、私たちを用いて神のお働きをさせようと、あらかじめ定めていてくださるのです。




posted by まさ at 17:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年04月16日

理想と現実

   
          レビ19:2

 聖書の教えには、人間が生きるべき姿としては高すぎる理想と、現実に混沌とした社会の中で生きるべき生き方の、両方が記されています。高い理想の教えと戒めを読むと、とても到達できないと失望しそうになります。現実に神を信じて生きている人々の泥まみれの有様を見ると、あきれ果てて失望してしまいます。不注意に聖書を読むと、そのどちらかに目を奪われ、聖書の本当の教えを理解できずに終わってしまいます。

T. 高すぎる理想  

 聖書が教える高い教えを読んで、これは不可能だと始めから投げ出す人がいます。あるいはなんとしても到達しようと、死に物狂いの努力をする人もいます。どちらも間違っています。この高い戒めには、主に三つの目的があります。

@ 神の絶対の聖さを教えるためです。 私たちの神は中途半端な神ではなく、完全に聖い方、一点の曇りもない方です。性質として、汚れと穢れを嫌い、悪を憎むお方です。 A 人間の罪を教えるためです。 この絶対の聖さの前に出ると、どんなに高尚な人でも罪人に過ぎないことが分かります。聖書の高い教えは、すべての人間が神の前には穢れた人間であることを教え、そのままでは神に受け入れられることができないことを教え、神からの救いが必要であることを教え、救い主を期待し、受け入れる心の準備をさせるためのものです。 B 私たちが到達する聖い姿を教えるためです。 この聖い姿は、私たちが理想として、聖霊の力によって少しずつ近づくものです。聖霊の助けによって、不可能も可能になるのです。でも、この世に生きる限り、決して理想の姿には到達できません。だからといって失望しません。必ずその姿になることができるからです。神は私たちを甦らせ、キリストの姿を着せてくださると約束をくださいました。神の約束が違えられることはありません。

U. 現実の泥まみれの生活  

 多くのクリスチャンたちは、神の至高の聖さの教えを勘違いして、この世で到達できるものと考え、また到達しなければならないものと思い込み、苦しい生活を強いられています。絶対に到達できないために、いつも罪意識にさいなまれ続けなければなりません。反対に、中には自分はかなり到達していると、誇らしげに生活し、他人を見下げる者も出てきます。気高い神の戒めは、人間の望みを打ち砕いて苦痛を味合わせるためのものでも、傲慢にならせるためでもなく、救いにいたらせるためのものです。
 
 私たちは、自分が罪人であることをしっかりと知りながら、なお、感謝と喜びを持って生きることができるのです。神の願いは、この高度な教えをもって人々を裁くことではありません。かえって、その高度で美しい姿が自分のものになるのだという、希望を持って生きることができるようにすることです。

 神は、気高い聖さに到達できない人々を断罪し、排除し、排斥することを喜びとしてはいません。かえって、その人々を現実の罪の混乱の中でも、少しでもより高い生き方を目指して生き続けさせ、救いに入れようとしておられるのです。聖書は、罪の中に生きる私たちが、罪と戦いながら、しかも喜びと感謝を持ちながら、より高い生き方を目指して生きるように励ましているのです。神がお求めになるのは犠牲ではなく、哀れみなのです。

V. 私たちの教会 

 私たちの教会は、自分の力で聖い生活に到達した人々の集まりではありません。かえって、自分の力と能力に失望し、神の哀れみと助けによりすがった、罪人の集まりです。全員が、まだまだ不完全な生き方をしています。たとえより高度な生き方ができるようになったといっても、どんぐりの背比べです。しかも、それは自分の力によって可能になったのではなく、神の助けによって初めて可能になったのですから、まったく自慢にはなりません。

 私たちは失敗を前提に生きています。そして、神が忍耐深く私たちを待ちながら、助けてくださっていることも知っています。神は罪人が死んでしまうことを望んでおられるのではなく、何とか神の哀れみにすがって、生き続けることを望んでおられるのです。

 私たちの教会は、すなわち私たちの教会の信徒たちはみな、罪人を裁いて退けるのではなく、罪人を励まし、少しでも高い生き方をするように、励ましてあげるのです。そしてそのとき、神に祈り、神の助けを期待することを教えて差し上げるのです。その罪深い人が罪深いままで、神の助けを祈るならば、神の助けを体験することができるのです。それが、救いに繋がるのです。

 聖書の教えは、新車のマニュアルのように壊れていないことを前提に書かれているのではなく、ここは故障している、あそこは壊れている、あっちは動かない、こっちはガタピシしているという、ポンコツ車が何とか走り続けることができるように、走る知恵を授けている分厚いノートのようなものです。その中で、「本来、この車はこのように走ることができたのだし、いつかはまたこのように走ることができるのだから、大切に使いなさい」と励ましているようなものなのです。

 教会は、ポンコツ車の集まりです。でも、希望のあるポンコツ車です。

posted by まさ at 18:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

あらかじめ定めてくださった

          エペソ1:3〜14

 神様は全知全能です。つまり、すべてのことをご存知で、すべての事をすることができるということです。神様は、天地をお造りになる前から、愛のうちに私たちを選び、私たちの運命を定めてくださいました。

 この事実を受け入れるのに苦労しているクリスチャンたちもいます。人間の自由意志を重んじるグループの人たちです。神が絶対のご意思で人間の運命を定めてしまわれるのなら、人間の自由意志が入る余地がないではないかというわけです。神が救いに選んでくださったのなら、どんなことになろうと救われ、神が滅びるように選ばれたものは、どんなことが起ころうと絶対に滅びるのなら、伝道する意味もないではないかというわけです。反対に、神の絶対意思を強調するグループの人たちも、人間の自由意志と神の選びの関わりを理解するのに、苦労しています。
 
 この議論は何世紀にもわたって続けられていますが、根本的な間違いは、絶対の神、超絶しておられる神の自由意志を、人間の限定された知識、能力による限られた自由意志と同列同等におくことです。いつも言うように、金魚鉢の中の金魚は、金魚の能力と知識と金魚鉢のという限定された中で、まったく自由です。でも、金魚を飼っている人間はその金魚の自由意志とまったく衝突することなく、金魚鉢ごと金魚を持ち運ぶことができます。金魚の自由意志と人間の意志とは、たとえ同じ次元に生きていても、ほとんど衝突することがないのです。ましてや、次元を超越しておられる全能の神と、小さな小さな有限の三次元に生きる人間の意志が衝突するわけがないのです。

T. 神の子たる身分が授けられるように  

 神がご自分の絶対の自由意志で定めてくださったのは、私たちに聖く傷のない神の子としての身分を与えてくださるということです。そのために、み子キリストの尊い血によって贖いを完成してくださいました。全知全能で不変の愛の神が、永遠の昔から私たちを選び、神の子と定めてくださったのですから、私たちが聖く傷のない神の子となりそこなうなど、ありえないのです。私たちは罪に破壊されたこの世、悪魔の支配するこの世に生まれ、悪魔の力の下に、穢れ、傷ついてきました。そして悪魔の子といわれるにふさわしい生き方をしてきました。しかし、私たちは聖くされ、完全に癒されて、神の子としての身分が与えられるように定められているのです。

 私たちは今、この見えない霊的な事実を見上げながら生きています。だから、どのような困難の中にあっても、絶対にくじけません。八方ふさがりの状況に陥ったとしても、決して絶望しません。神の子として、神の祝福を全身に受けるときがくるのを知っているからです。神の宝を受け継ぐそのときを見つめているからです。私たちはすべての意味で、神の子と呼ばれるのにふさわしい者に、造り変えられるのです。

U. 私たちが神の栄光を褒め称えるため  

 神の選びと定めの目的は、ただ人間の幸せにあるのではありません。神はすべての栄光をとられる方であり、神だけが、自分の栄光を求めることを正当とできる方です。人間は、神に造られ、愛され、贖われ、子とされ、完全にされたことを喜び、至福の中に生きながら神を褒め、敬い、慕い、感謝しながら生きるのです。それが神の栄光を称えることになるのです。神の栄光を称えることと人間が幸せに生きることは、本来一つのことなのです。
 
 ですから、人間が自分を造ってくださった神をないがしろにし、無視し、忘れて、神がいらっしゃらないような生き方をすることこそ、神に対する最大の罪なので。神を除外した生き方を始めた人間は、当然、自分を中心とした生き方をはじめます。人間中心の考え方、生き方がどれほど自然を破壊し地球を痛めてきたことでしょう。それは結局自分たちの首を絞めることになっています。また人間同士が、互いに自分を中心にして、周囲のものたちを利用し生きようとしているため、争いと戦い、騙し合い裏切り合いが絶えません。

 私たちはやがて完全な神の子とされ、創造主である神を中心とした生き方をしながら、造られたものとしての最大の幸せを得るのです。

V. 与えられた聖霊の証印

 私たちの望みはただ未来だけにあるのではありません。今のこのとき、神の子としての祝福をたくさん体験することができるのです。神に祈り交わり、神の愛のすばらしさを知り、感動を持って生きることができます。自分の罪に打ち勝って、より正し生き方ができるようになり、より良い人間関係、より良い家庭、より良い社会を築くことができるようになります。私たちの健康も回復され、奇跡的癒しも体験することができます。
 
大多数のクリスチャンにとって大切なのは、むしろ、この今の毎日の生活です。未来の希望だけで生きることは困難です。大切なのは、私たちの未来に輝く希望は、そのまま現在の日常の生活につながっているということです。私たちは今、未来の希望を先取りして体験することができるのです。それが信仰です。甦りのときに体験する完全な癒しを、信仰によっていま先取りするのです。それは信仰、つまり、神に対する信頼と求める気持ちの強さに関わるのです。
 
 また今信仰によって体験する様々な祝福は、やがて現される完全な祝福のための証印、今の言葉で言うならば、「担保」となるのです。体の癒しは、やがて完全な体が与えられるという事実を保証するものであり、心が変えられたという今の体験は、やがて完全な人間に造り変えられるという事実に対する保証なのです。 
 
 私たちは未来の希望をたくさん語りましょう。希望のないところで生きることはできません。しかし希望だけでも生きていくことはできません。今をしっかりと体験し、未来を語りましょう。それが、伝道となるのです。


posted by まさ at 17:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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