2012年05月08日

私が会った人たち

1. アベとリタ

 1973年9月、東京で2年間、沖縄で5年間の開拓伝道の後、私は宣教師になる希望に駆られ、家族を東京に残したまま、ひとりフィリピンの土を踏みました。私たちの教団の海外伝道の働きはまだまだ揺籃期で、積極的に踏み出せないでいたときだったため、私は教団を休職して、「勝手に」フィリピンの小さな神学校に留学したのです。とにかく、日本にいたのでは何の進展も期待できないと、海外に出て情報を得ようとしたわけです。

 全寮制のその学校で同室になったのが、フィリピン人のアベ君でした。本当はアブラハムと言う恐ろしく立派な名前ですが、通称、「アベ」です。いつもゆったりとして、はにかみがちに白い歯を見せながら静かに話す彼は、派手で行動的なフィリピン人たちの間では珍しい存在でした。何につけても、いつも置いてきぼりになっているかのように見えながら、いつのまにか上手にまとめ役を務めているように見えました。多分、私より4、5歳は若かったはずですが、マニラの町にも東南アジアの習慣にもまったく不慣れな上に、まだ英語がよく話せなかった私のために、何かと気を遣ってくれたものです。

 寮生活を始めて間もないころ、隣の部屋のフィリピン人学生が、
 「顔を洗う石鹸を貸して欲しいんだけど」
とやってきました。
 「ああ、どうぞ」 
私は石鹸箱ごと手渡しました。
次の日、真っ黒い肌をしたこのフィリピン人学生は、
 「ヨッ!」
と軽く会釈して私たちの部屋に入ってくると、黙って私の衣装棚の上の石鹸を取ると、そのまま出て行ってしまいました。
 よほど驚いた顔をしたのか、私の様子を見たアベが言いました。

 「フィリピンの田舎では、一度借りたものをもう一度借りたいときには、『また貸して』とは言わないんですよ。そんなことを言うと、同じものを二度も貸して欲しいと頼むのは、持ち主をよほどけちな人間だと考えているからだと解釈されるんです。『俺はいつも頼まれなければ貸さないほど、けちな人間だと思っているのか。見損なうな!』ということになって、とても嫌われるんです。だから、彼が黙って石鹸を持って行ったのは、『あなたを信頼しているよ』と言っているのと同じなんです。

 フィリピンで人と仲良くしようと思ったら、何かを貸してほしいと言われたときには、絶対に断らないことです。貸してあげたものを返してもらえないときも、決して返して欲しいと言ってはいけないんです。人間関係が壊れてしまいます。どうしても返して欲しいときには、貸した人に、『あれを貸してください』と言って借りきて、返さなければいいんです」

こんなことを手始めに、ずいぶんいろいろと教わったものです。


 彼は当時、婚約者と破談になってまだ間もないころでした。怒ったその女性の兄が、リボルバー式拳銃を持って彼を付け狙っているとかで、外出は控えめにしていました。その女性は、田舎で聖書学校の校長をしていると言うことでしたし、その兄も、立派なクリスチャンだということですが、なにごとにもすぐ熱くなるフィリピン人です。実物のピストルなんぞ見たこともない私には実感が湧かない話だったので、「おやおや、可哀想に」と思う一方、笑い出したくなったものです。私たちの学校も、ご他聞にもれず、ショットガンを持った数人のガードマンに、一日二十四時間守られていたために、キャンパスに留まっている限り安全ではあったわけです。

 ところが彼には、すでに、リタという名の可愛らしい恋人がいました。日曜日の奉仕に行く教会の、忠実な信徒でした。
 「破談になってからまだあまり経っていないのに、前の婚約者の兄をますます怒らせてしまう」
と、どうしても前に踏み出せないでいる彼の背中を、
 「そんなことはよくあることだから」
と、思いっきり押してやったものです。
 「どんなにまじめに考え、責任ある行動をしようとしても、破談になるときはなるんだよ。それに、話をきいたところでは、君は決して無責任なことをしたわけではないのだから」
 
 「リタ、リタ、リタ、リタ」
アベは、何かにつけてリタの話をするようになり、それから、
 「ヨウコ、ヨウコ」
と、東京に残してきた私の妻の名を呼んで、
 「淋しいだろう?」
年上の私をからかうのです。
 「はやくフィリピンに呼んだら? 僕なら、妻を置いて外国に行くなんて考えられないね」
 「そんなことを心配するより、私にリタを紹介するのが先だろう?」

 私たちは、将来のビジョンについても情熱を傾けて話し合いました。私は、宣教師になる準備のためにフィリピンに来たと言い、アベは、聖書学校の教師になりたいと目を輝かせていました。ところが、そうこうするうちに、彼も宣教師になりたいと言い出したのです。

 「ちょっと気弱で線が細そうだけど、結構忍耐深いし、適応力も学力も実践力もある。人間関係も上手くやっている。これは意外といけるかもしれない・・・」 
私は考えました。マニラ湾の外に浮かぶ小さな島の出身だという彼は、根っからの田舎者ですが、案外、都会にもうまく順応していました。

それからは、話が将来の働きに及んだときにはすかさず、
 「宣教師になることを真剣に考えて祈ってみるべきだよ。君にはかならず出来るよ」
と、いくどか背中を押してやったものです。


 私より一年先に卒業することになったアベは、卒業式の夜、左手に大きな花束をいくつも抱えもう片方の手で若い娘の肩をそっと押し、おりしも満開のくちなしの花より真っ白な歯を見せながら、私のところにやってきました。
 「これが僕のスィートハート。リタです」
 小柄で大きな目をした丸顔の女の子が、ピョコンとお辞儀をしてから、握手の手を伸ばして言いました。
「Are you the husband of sister Yoko?」
結構ユーモアもあるようでした。


 神学校を卒業して数年後、私はフィリピンの北部山岳地に住む、イゴロットと呼ばれる未開部族のための宣教師活動をしていました。アベはリタと結婚し、当時のフィリピン・アッセンブリー教団の総理が牧師をしていた、マニラの教会で副牧師として働いていました。

 特別集会の講師として私たちの教区を訪れた総理が、私の家の夕餉の雑談でふと漏らしました。「アベの奴が宣教師になりたいなんて言い出したのだけれど、何の風の吹き回しだろう。ただ、あれは線が細いから、駄目だ。お前には無理だと告げてきたところだ」 

 「いや、彼は結構忍耐深いし、図太いところもあって、むしろ僕なんかよりも、よほどいい宣教師になれると信じていますよ」
と、私。
 「ウーン。どうかなぁ。それにリタだよ。彼女は裕福な家の生まれで、宣教師のようなラフでタフな働きにはついていけないと思うんだ」 
 「いや、彼女も結構しっかりしているというか、度胸が座っていて、大抵のことは乗り越えられると思いますよ。アベが前の婚約者の兄に、リボルバーで追い回されていたのに、キャンパスから連れ出してデートをしていたくらいだから。もちろん、恋は危険をも顧みずで、べつの話ですが・・・・・・」

 ほどなく、アベとリタはフィリピン・アッセンブリー教団の正式な宣教師として任命されました。しかも、秘境と呼ばれるパプアニューギニアに遣わされるというのです。オーストラリアのアッセンブリー教団と協力して、聖書学校で教えることになったと聞きました。

 パプアニューギニアは、オーストラリアの植民地であったことから、以前からオーストラリアの宣教師たちが活動していたのですが、白人の働きはなかなか受け入れられず、ニューギニア人のクリスチャンは数こそ多いものの、その信仰はほとんど表面的なもので、生活は土着信仰に深く根を下ろしていました。そのような土地で褐色のアベとリタは、聖書学校の仕事のかたわら、周囲の村々を訪ねては熱心に伝道活動を続けていました。その活躍ぶりは、風の便りで私の耳にも届いていました。

 その後、何かの国際会議などで一度か二度、顔を合わせたことがありました。懐かしさで一杯になり抱き合って挨拶をしたものですが、互いに忙しく、長い話は出来ないままになっていました。

 1990年、私は次男の病気のために、突然フィリピンでの働きに終止符を打ち、日本に戻ってきました。アベはアジア太平洋地域の聖書学校協議会で活躍をしていました。そのうちに私も国際的な働きを任され、アベと一緒に聖書学校で働いていたオーストラリア人宣教師と、協力して仕事をすることになりました。彼の口から、アベがいかに現地の人々に受け入れられ、素晴らしい働きをしているか、詳しく聞くことが出来たのです。

 「アベはやっぱりフィリピン人だ。われわれのような個人主義の白人と違って、家族とか、部落の共同体というものをよく理解して、ニューギニア人の習慣によく溶け込んでいる。彼の働きは実にいい。奥さんのリタがまた素晴らしい。あの小さな体に、よくもあんなにエネルギーがあったものだ」


 今年(2012年)の3月のことです。神学校の卒業式と理事会のために、私は例年通り上京し、おりしも開かれていた大学生伝道の集まりにも出ることになりました。そこで、責任者として来日していた、フィリピン在住のアメリカ人宣教師夫婦に会うことが出来ました。25年以上も前、私がフィリピンにいた当時に知り合っていた仲です。懐かしい話にしばらく花を咲かせた後、彼が言いました。
 「ところで、アベの奥さん。リタが神様の御許に召されたのは知っていますか?」 
私は耳を疑いました。まだ、60にもなっていなかったはずです。
 「それでね。リタの亡骸は、本人の希望通り、パプアニューギニアに運ばれて、聖書学校のキャンパスに埋葬されたんですよ」

 「そうですか・・・」
天井を見上げる私に、アメリカ人は続けました。
 「彼女ほど、みんなに慕われた宣教師の奥さんはいなかったそうです。現地の学生たちは、みんな、彼女を本当の母のように思っていたと聞きました。」 
 私は、まだ3、4歳の長男の手を引いたリタが、輝くような笑みを浮かべて「クムスタカ?(ご機嫌いかがですか?)ブラザー ササキ」と、挨拶に来たときの姿を思い出していました。
 
 教団の総理から、裕福な家庭で育ったから、困難と危険の多い宣教師の働きに耐えられるかと心配されたリタは、走るべき道を見事に走り終え、主の御許に帰ったのです。





posted by まさ at 19:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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