2012年11月26日

アブラハムに倣う


創世記 15:6

 私たちはキリストの証人です。いつでも何処でも、キリストについて証をします。そのとき、ただ一方的に語るのではなく、立場を変えて証を聞く人たち、伝道される人たちの側に立って考えて見ることが大切です。大概の日本人は、聖書のこともキリストのことも神のことも、ほとんど知りません。ですから、聖書の物語を読むとき、今の日本人のような環境にいた人について学ぶと、とても役立ちます。


T. 神に近づいていただいたアブラハム  

 アブラハムは、始めから天地をお造りになった神を信じていたのではありません。アブラハムが生まれ育った環境は、いろいろな神々が信じられていて、特に月の神が敬われていたと知られています。アブラハムも、周囲の人たちと同じような宗教観、神観を持っていたことでしょう。

 しかし天と地をお造りになったお方は、アブラハムのまじめな宗教意識、あるいは生き方を見て、ご自分の偉大な救いの計画を遂行するために彼を選び、近づき、語りかけてくださいました。神を信じるためには、神についての最小限度の知識が必要ですが、アブラハムには神の側からの直接の語りかけがあったのです。

 アブラハムの場合は、頭の理解よりも神とのお付き合いで深まった、体験による知識でした。たとえ神についてあまり知らなくても、多くの神々の中から、私はこの神を選んで仕えると言う態度です。そこで神は「アブラハムの神」という呼ばれ方をお許しになったのです。

 いま、日本人に伝道しようとする場合、あまり神についてこまごまと教えても始まりません。それよりも、神を信頼したら、神にお祈りしたらどんなに良いことが起こるか、どんなに素晴らしい生活が出来るかをお話し、この神を選ぶようにお勧めすることです。その場合、私たちの証、体験をお話することがとても役に立つのです。

 神に近づいていただくには、神を信頼するのが最善なのです。


U. 神とお付き合いを始めたアブラハム  

 新約聖書の時代には、ユダヤ人の宗教的背景がありましたから、「救い」ということ、特にイエス様を信じる瞬間に救われるという点が、強調されていました。また、長いキリスト教の背景がある西欧の文化の中でも、救われる瞬間が強調されてきました。しかし、聖書を読むと、いつも必ず救いの瞬間が分かるというものであったわけではありません。救いは一つの長いプロセスの中で起こることで、それがいつであるか、私たちの側からは的確に言うことができない場合も多いのです。

 アブラハムは救われるということには関係なく、まず神とのお付き合いを始めました。その中で、彼の宗教的な資質とでもいうべきもの、自分が仕えると決めた神に対する忠実さこそはっきりしていましたが、多くの点で欠点だらけでした。いろいろな失敗を経験しながら、アブラハムはさらに深く神について知り、信頼を深めていったのです。

 私たちも、日本人に伝道しようとするとき、神とのお付き合いの期間、つまり学びまた知る時間を大切にしなければなりません。多くの日本人には、神を信じているのか信じていないのか、自分でも良くわからない期間があるのが普通です。そのような期間に、私たちにとって大切なのは、仲良くお付き合いを続け、励まし、助け、教えてあげることです。

 信仰が分からなくなったり、神の存在に疑いが生じたり、自分の醜さや失敗に失望したり、あるいは出来損ないのクリスチャンに、がっかりしたりするものです。自分も他の人からは「クリスチャン」として見られ、そのフラフラした生き方に、「なーんだ」とがっかりされていることにも、気づかないことが多いのです。


V.神を信頼したアブラハム  

 アブラハムが義とされた、つまり救われたのは、だいぶ長い間神とのお付き合いを続けてからの出来事です。聖書の記述では、あたかも子供が与えられると信じた瞬間、アブラハムは義とされたかのように読めますが、むしろ、神はもっと早くからアブラハムの信頼を喜び、それを受け入れ、議と認めておられたけれども、あのときの出来事を契機として、義と認めたと明らかにされたのではないかと思われます。(義とされるとは、裁判用語で、無罪と認められる、正しい者と認められるということです。聖書では神がその人を正しいと認めて受け入れてくださる、つまり救われることの別の表現です)

 アブラハムが義とされたのは、彼が神の目の前で何か良いことをしたからではありません。功績を積み重ねたからではありません。ただ神を信頼しただけです。神は信頼されることを最もお喜びになり、その信頼を受け入れ、義と認めてくださったのです。

 私たちも、まず神を信頼すること、信頼しながら生活をすることを、教えてあげなければなりません。それは何かにつけて神に、祈り、願い、頼って生きることであり、神に喜ばれる生活をしようとすることです。普通の生身の人間に、神の教えを守り抜くことは出来ませんが、神に信頼しながら、祈りながら生きていくと、不思議なことに、できるようになっていくのです。神が助けてくださるからです。


 W. キリストによる救いを受けたアブラハム 

 アブラハムは、キリストがお生まれになる2千年も前に生きた人です。でも、アブラハムもまた、キリストによる救いを受けたのです。キリスト以外に、人を救うことができる方はいないのです。時代を超えて、すべての人はキリストの十字架の贖いのゆえに救われるのです。アブラハムがキリストを知っていたかどうかは、問題ではありません。彼は、全く知らなかったはずです。でも、神がキリストをご存知で、そのキリストのゆえに、アブラハムを受け入れることが出来たのです。

 今私たちは日本人に語るとき、キリストという名を始めから持ち出す必要はありません。アブラハムの例に倣うなら、キリストを知らなくても救いは得られるのです。神を信じればよいのです。私たちが証をする相手が、日本人と言うことを重く考えるなら、神という言葉も不適当かもしれません。

 日本人の多くは、「聖書の神」とはまったく別の神意識を持ち、神の実在を信じていません。日本人にとって「神」とは、人間よりちょっとだけ上の力を持っているものに過ぎません。だから八百万の神々と言いながら、それらの神々の存在を馬鹿馬鹿しいと感じて信じてないのです。神は存在しないと日本人が言うとき、そのような神を意味しているのわけです。ですから、天地を創造された神を「神」と翻訳してしまったのは、大きな躓きになっているわけです。

 日本人の多くは神はいないと言いながら、心の奥深くで、大きく、気高く、清らかで、恵と憐れみに富むお方の存在を感じています。「なにごとのおわしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」という感覚を持っているのです。その、言葉でも絵でも、彫刻でも表現できない、「かたじけない」と感じる見えないお方こそ、聖書が教えている天と地をお造りになった方だと教えてあげ、その方を信頼するように勧めてあげればいいのです。

 日本人も、頭では神を理解できなくても、アブラハムのように神とお付き合いを始めることによって、神を体験で知ることができます。そして神を信頼すれば、キリストによる救いを受け、神に義と認められて、神との交わりを回復され、永遠の命をえることが出来るのです。キリストのことは、その後、ゆっくりとお話してあげればいいのです。




  
posted by まさ at 10:30| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

どう祈ったら良いのでしょうか

 
       マタイ6:5〜15

 あるとき弟子たちは、どう祈ったら良いのかとイエス様に尋ねました。そこでイエス様がお教えになった祈りの模範は、非常に簡単ですが、内容の濃いものでした。それは間違いなく、素晴らしい祈りのひとつの模範です。でも、祈りはそれだけではありません。実にたくさんの種類の祈りがあり、さまざまな形があります。


T. 簡潔な祈り  

長い時間祈ることが、立派な信仰であるかのように言われることがあります。確かに、祈りに一日を費やし、祈りに人世をささげることも素晴らしいものです。しかしその一方でイエス様は、異邦人のようにくどくどと祈ってはならないとも教えておられます。祈りは自己暗示ではありません。神様への語りかけです。お題目を唱えるように、同じフレーズを幾度も繰り返し、自己陶酔や恍惚に陥ってはならないのです。たとえ、一日を費やして祈る場合でも、くり返しの祈りではなく、詳しい内容の祈り、あるいは多くの課題の祈りでなければなりません。祈りは練習です。
 
 大切なことは、くどくど、だらだらと祈るのではなく、祈ることをしっかりとまとめて、熱心に祈ることです。その熱心さが募って長い祈りになっても、それはそれで素晴らしいことです。短くすることではなく、端的にしかも熱心に祈るのが良いのです。
 
 また祈りには、@お願いの祈りと A感謝の祈りと B賛美の祈りがあります。私たちはお願いばかりして、感謝を忘れがちです。さらに賛美の祈りとなると、めったにしません。でも一番大切なのが賛美の祈りです。神様は賛美にふさわしい方です。祈りは訓練です。


U. 聞く祈り  祈りは神様に語りかけることです。しかし一方的に語りかけるのではなく、神様の語りかけを聞く態度が必要です。祈りは神様との会話でもあるのです。自分が語り終わったら、静かなときを持って、神様がお語りになるのを聞くのです。

 神様は今も、耳に聞こえるように答えてくださることもあります。しかし聖書が完結している現在、心に語りかけてくださることが普通です。実際は、聖書の言葉や教えを思い出させて下さったり、信仰の判断をさせてくださったり、良心でわきまえることが出来るようにしてくださることが多いのです。理解力を加え、勇気を与え、実行力を加えてくださることもあります。自分が語りたいことを語り終わったら、語りっぱなしにしてすぐに立ち上がるのではなく、じっくりと、あせらずに、神様のお答えを待つ姿勢が大切です。神様のお答えを聞き取ることができるようになりましょう。祈りは鍛錬です。

 ただし神様に聞く場合、自分の思いや考え、あるいは人の意見を神様の答えと間違えてしまわないように、気をつけなければなりません。心に思い浮かぶことが、みな神様のお答えなのではありません。思い出された聖書の言葉が、神様のお答えだとは限らないのです。大切なのは、聖書を通してご自分を啓示してくださっている、神様のお姿、お考え、み心の基本を、しっかりとわきまえ、そこから物事を判断することが出来るようになっていくことです。祈りは修練です。


V. 信仰による祈り  

 祈りの要素として最も大切なのは、信頼です。神様に信頼してお願いするのです。本当に信頼しているならば、幾度も繰り返してくどくどとお祈りしません。パウロも、自分の肉体のとげが取り去られるように「三度も」祈ったと言っています。「三度も」なのです。『三度しか』ではありません。

 でも、アブラハムは神様に対する強い信頼があったればこそ、ソドムとゴモラが滅ぼされないように、神様に食い下がって幾度も繰り返して交渉しました。どちらの場合も、神様に対する信頼が鍵です。神様への信頼が無い、お題目を繰り返す祈りは祈りでないのです。神様は、私たちが求める前に、私たちに必要なものはご存知なのです。


W. 交わりの祈り  

 神様が喜んでくださるのは信頼です。言い代えると、心の交流です。神様が人間を神様に似せて造ってくださったということは、人間が神様と交わることが出来るようにもくろまれたということです。神様は始めから、人間が神様と心を通わせ、神様との暖かい交わりを喜ぶようにとお造りになっているのです。その交わりを、神様もまたお喜びになるのです。
 
 私たちはもっと神様との交わりに時間を用い、毎日の生活のあらゆる位置で、神様を思い、神様に語りかけましょう。それはお願いよりも、感謝と賛美に繋がります。もっともっと自然の中に飛び出して、自然を通して自然をお造りになった神様を感じ、感謝をしましょう。

 空の青、海の藍、山の緑、雲の白、稲穂の黄金に感謝をしましょう。鮮やかな花々、ユニークな昆虫たち、海の中の生き物たちにも感動するだけではなく、それらをお造りになった神様を想い、賛美しましょう。耳を楽しませる小鳥のさえずり、虫たちの歌声、肌をなでる風にも感謝をし、賛美を重ねましょう。私たちが美しさを感じ、心地よさを感じる感性を与えられていることも、感謝しましょう。

 私たち現代人は、あまりにも多くの人造物に囲まれてしまい、神様がお造りになった自然から離れ、神様との交わりが少なくなってしまいました。それが人間の精神の貧困を生み出しています。神様との交わりを楽しみ、神様の臨在を感じられるようになると、長々とした祈りも不要になります。くどくどとお願いする気持ちもなくなります。私たちが神様の大いなるみ手の中に生かされていると感じるだけで、心が安らぐからです。





posted by まさ at 10:19| Comment(1) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人となってくださった神



ピリピ2:1−11、ヨハネ20:21


 人はひとりでは生きて行けません。ところが集まったら集まったで、人間関係がとても難しくなります。教会も人間の集まりであり、お付き合いがとても難しいときがあります。パウロが開拓をしたピリピ教会でも、いがみ合いや仲たがいがありました。そこでパウロが教えたことは、キリストの心を心とすることでした。

 キリストは、神のみ姿を捨てて人の姿をとってくださったお方です。キリストがお生まれになったのは自分が幸せになるためではなく、罪の中に死を待つ人間を、ご自分の十字架の死という手段をもって救うためでした。他の人のために自分を放棄したのがキリストの姿です。この姿、その心を自分のものにすることによって、私たちは美しい人間関係を作ることができるのです。

 これはもちろん、キリストを主として仰ぐクリスチャンだからこそ、可能となるものです。クリスチャンとはキリストに倣う者であり、キリストに倣おうとするとき、私たちのうちには聖霊が強く働いてくださり、私たちだけの力では到底無理なことも、出来るようにしてくださるのです。


T. 人と共に住む  

 キリストは人の痛みや苦しみ、悲しみや悩みを、本当の意味で理解するために、というより、本当に理解して下さっていると思ってもらえるために、人と共に住むことをお選びになりました。安全なところに留まったままで、危険に瀕している人を助けようとするのではなく、自らも危険の中に飛び込んでくださったのです。

 人を理解するためには、その人の立場まで降りて行くことが大切です。もちろん、私たちが多くの人を理解しようとするとき、それら一人ひとりのところまで降りて行くのは不可能ですが、常に相手の立場に立って考えてみる、慮(おもんばか)ってみることが大切です。立場を変えて物事を見る、相手の立場に立って考えてみるということが、どれほど多くの問題を解決し、円滑な人間関係を作り上げることが出来るか、驚くばかりです。
 
 天のみ国に国籍をもつ私たちクリスチャンが、いまだにこの世に留められ、いろいろな苦しみに喘がなければならないのは、キリストの代理として、世の中の人たちと共に生き、苦しんでいる人たちの苦しみを味わい、痛みを知ることによって、より効果的に、彼らに救いを届けるためなのです。

 教会の中でも、クリスチャン同士が互いに他の人たちを思いやり、立場を変えてその人たちの側に立って考え、慮ってあげることが、キリストの姿に倣うことであり、良い人間関係、平和な喜びに満ちた教会を作り上げる秘訣なのです。そのように努力するとき、聖霊が力強く働いてくださるのです。


U. 自分を捨てる  

 キリストが人と共に住むためには、自分を捨てなければなりませんでした。神の姿、神の栄光、神の権威、神の力、神の知識、神の無限さなどをみな放棄してこられたのです。私たちも人と共に住み、互いに理解し合うためには、多くの場合、自分を放棄しなければなりません。自分の立場、自分の利益、自分の名誉、自分の主義、自分の主張、自分のプライド、自分の好み、自分の欲、自分の理想、自分の目標に固執したままでは、他の人のところまで到達することが出来ません。その人を理解し、その人の立場に立って考え、その人の助けになることは出来ないのです。

 自己否定こそ、他人を活かし、また自分を生かす秘訣です。これは一般の世の中の考え方とは全く異なります。私たちが受けてきた教育、訓練は、みな、自分を活かし自分を高める「自己獲得」のためのものでした。どれだけ自分を大きく見せることが来るかが、最大の関心事でした。しかし私たちがみ国で問われるのは、自分がどれだけ幸せになったかではなく、どれだけ多くの人を幸せにしすることができたかということです。
 
 自己主張をしている限り、自分の周囲の人を幸せにすることは困難です。自己主張をやめ、自分を放棄することによって他人を活かし、幸せにしてあげることが出来るならば、自分を放棄しましょう。他の人の幸せを自分の幸せとすることが出来る人こそ、幸いな人です。

 自己放棄こそm最大の自己主張であるこを知るのもたいせつです。キリストは他の人の救いのために、徹底した自己放棄を実行なさいました。それで、神はキリストを高くあげて、すべての名に勝る名をお与えになったのです。

 私たちは自己放棄をしたために、自分を失ってしまうことは無いのです。神が保証となってくださっているからです。


V. キリストによる自己放棄  

 キリストの歩まれた道を歩むことは易しいものではありません。意思が強く、一度決めたことは遣り通す強靭な性格を持ち合わせている人には、ある程度可能でしょう。しかし、意思も弱い、忍耐力も足りない私たちのような、生半可なクリスチャンには全く不可能のように思えます。ところが、あきらめるのはまだ早いのです。なぜなら、私たちの内に住んで下さっている聖霊が、私たちの内側からの力、動機、励まし、継続力、忍耐力となってくださり、生身の私たちには到底出来ないことを、やり遂げさせてくださるのです。それで私たちの教会は、本当に愛の教会になるのです。
 
 キリストにように歩みたいという願いを起こさせてくださるのは、聖霊のお働きです。それを実行させ、継続させてくださるのも聖霊の力です。聖霊に信頼しながら、祈りながら、努力していくならば、聖霊は確実に成長を遂げさせてくださるのです。

 私たちはしばしば自分の弱さを思い知らされ、涙を流します。しかし、聖霊は私たちをキリストの身姿に似せるお働きを、あきらめてしまうことが無いのです。あくまでも、聖霊に信頼して、一歩ずつ前進しましょう。私たちは、たとえどんなに失敗を繰り返したとしても、私たちを迎えに来てくださるキリストにお会いするとき、完全にキリストに似るものとされるのです。私たちの希望は失望に終わることはありません。





posted by まさ at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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