2013年08月18日

食べることに熱心な教会

 
愛餐会
              
 私たちの教会は一緒に食べることに熱心な教会です。機会があるごとに食事会をし、それでは足りなくて料理講習会もしています。実は、教会は使徒の時代から、もっとたどるとイエス様の時代から、食べることに特別な意義を見ていたのです。それは単に神様がお造りになった食べ物を、感謝を持って味わうとか、信徒同士の交わりを豊かにするというだけでなく、もっと奥深いものです。


 聖餐式  

 イエス様が聖餐式を制定されたのは、いわゆる最後の晩餐の席上でした。イエス様はいつも、弟子たちをはじめ周囲の人々と食事を共にして、交わりを深めておられたようですが、この最後の晩餐は特別なものでした。それは、過ぎ越しの食事でもあったからです。過ぎ越しは、イスラエル民族がエジプトの奴隷状態から解放された、紀元前15世紀頃の出来事をことを忘れないために、記念するお祭りでした。そのときは膨らまないパンを食べるのが慣わしでした。民族全体が突然旅立ったために、パンを作る準備ができなかったことを、記憶の取っ掛かりにしたのです。

 イエス様はこの過ぎ越しを、ご自分の贖いの働きと関連付け、神様の裁きからの回避と、罪の奴隷状態からの開放を示唆されたのです。当時の弟子たちが初めからこのような意味づけを理解していたかどうかは別として、教会で一緒に食事をするという習慣はずっと続き、異邦人の教会でも行われるようになりました。


アガペー 

 使徒時代の教会では、このような食事会をアガペー(愛)と呼んでいました。現在私たちが愛餐会と呼ぶのはそのような背景があるからです。当時は「聖餐式」という儀式はまだ生まれておらず、この愛餐会の中で、互いにパンを分け合いぶどう酒を飲み交わして、イエス様が制定された「聖餐」の意義を守っていました。そのような状態から、やがて聖餐式に発展し、カトリック教会によって非常に大切な儀式(秘蹟)と制定されるに及んで、さまざまな非聖書的な教えが付随するようになりました。


カトリック教会 

 カトリック教会ができたときには、現在の聖書は非常に手に入りにくいものでした。印刷技術がなかったために、手で書き写さなければならなかったからです。それで、カトリック教会の教えは、どんどん聖書から離れ、当時の空想的で魔術的な要素と混ざり合ってしまいました。その最も良い例が聖餐式です。カトリック教会ではこれを「ミサ」と呼び、このために教会が存在すると考えるほど大切にしています。その教えによりますと、このミサで用いられるパンとぶどう酒は、司祭の祝福によって、「文字通り」キリストの体とキリストの血になるということです。色や形や臭いはパンとぶどう酒ですが、その実質において、キリストの体と血に変化するというと教えるのです。これを「化体説」と呼びます。そしてこのミサを毎週捧げられるキリストの犠牲と定義し、この犠牲に与れない者の罪は赦されないと教えます。ですから、カトリック教会の信徒は何が何でも日曜日の朝のミサを逃すことができないのです。逃してしまうとその時までに犯した罪が赦されず、天国に入れないと、少なくても一般の信徒の多くは信じているのです。


プロテスタント教会  

 プロテスタント教会は、非聖書的なカトリック教会に反発して、聖書一点張りを主張しますが、実際は、多くの面で、カトリックの非聖書的な面を引き継いでいます。当時の人が問題に感じたところだけ、聖書を読み直し、聖書に倣ったために、問題を感じなかったところは、そのまま放置されてしまったのです。ミサについても、問題意識を持った人たちは改革を試み、ある程度成功はしましたが、さまざまな面で、カトリックの空想的、魔術的要素を引き継いでいます。

 クローズドとオープン プロテスタント教会の中で、自分の教会の洗礼を受けている信徒だけに聖餐に与らせるのをクローズド(閉じられた)と呼び、洗礼を受けていなくても、キリストを信じているものには聖餐に与らせたり、ほかの教会の信徒でも与らせたりするのをオープン(開かれている)と呼んで区別をしています。

 私たちの教会  

 私たちの教会はその意味ではオープンです。クローズドにする聖書的根拠はありません。その上、私たちの教会は、子供や未信者にも、彼らが望むならば、分け隔てなくパンを与え、ぶどう酒を与えます。(酒類ですので子供には与えませんが、ぶどう液の場合は与えます)聖書を読む限り、信者未信者の区別はありませんし、大人子供の差別もありません。むしろ、そのような差別を持ち込むことが、聖書の教えに反すると考えるのです。ただしこのような方法をとっているのは、まだ非常に少なく、ある教団では、このようなことをした牧師は、資格を剥奪されてしまいます。


カトリック教会の残滓 

 このような間違った考えとやり方は、パンは文字通りキリストの体になり、ぶどう酒は文字通りキリストの血に変化すると教えた、カトリック教会の魔術的信仰の残滓です。キリストを信じていない者、キリストを救い主と告白していない者が、キリストの体を食べ、キリストの血を飲むことは、キリストを汚すことになる。とんでもない罪だ。赦されない罪だというわけです。それで、そのような未信者は神様の罰を受けると脅かされ、未信者に与える牧師は神様の裁きを受けると警告されるわけです。このように教える人たちはコリント第1の手紙の11章17〜34節から、彼らの主張を擁護します。でも、この部分を何の先入観も持たずに読むならば、彼らの言っていることが、まったく的外れであることが分かります。

 パウロが激怒している理由 

 ここでパウロが激怒したのは、パンとぶどう酒が未信者にも渡されていたからではありません。よく読めば誰にも分かるように、金持ちの信徒たちが、お腹をすかしている貧しい信徒たちを横に置いて、持ってきた食べ物をさっさと自分たちだけで食べていたことに、怒りを爆発させたのです。彼らの中にはぶどう酒を飲みすぎて、酔っ払っている者もいたほどです。愛の共同体である教会の、アガペーと呼ばれる愛の象徴の食事会で、愛の精神に反することが平気で行われていたのです。これは、キリストの心に反することであり、教会では絶対にあってはならないことなのです。

 病の者が絶えず、死んだ者もいる  

 パウロは、教会がそのような状態だから、病気の者がたくさん出、死者までも出ていると厳しく断罪したのです。これは神様の刑罰で病気になったとか、死んでしまったとかいう意味ではなく、そのような思いやりのなさ、無関心、冷淡さ、差別が、病の者を放置することになり、誰かが世話をすれば助かったものが助からず、死ぬ者たちまで出ていると言っているのです。プロテスタント教会の多くも、カトリック教会の非聖書的な迷信を受け入れ、聖書の教えをあえて曲げて解釈しているため、このようなおかしな解釈が生まれ、聖餐式で信徒以外の人を差別することになっているのです。

 聖餐の意義 聖餐はあくまでもキリストが十字架で成し遂げてくださったことを、私たちが常に思い起こし、忘れずにいるための手段なのです。種を入れない膨らまないパンは、エジプトからの緊急の脱出を思い起こさせるものであったように、キリストの体と血を象徴するパンとぶどう酒は、その意義を理解して口にするものにとっては、キリストの裂かれた体と流された血は、自分の贖いのためあったという事実を確認するものであり、それを信じる信仰を表明するものなのです。ですから、信徒が信仰の確認と告白としてパンとぶどう酒をいただくならば、神様の祝福が豊かに注がれるのです。未信者にとっては毒にも薬にもなりません。ただ彼らが、これはどういう意味ですかと訪ねたならば、それについて信徒たちが説明をすることができます。そこで、これは儀式に表された福音となるのです。


聖餐のさらなる意義 
 
 聖餐には他にも大切な意味がいくつもあります。ただ、一緒に食べるという面からいうと、これはやがて永遠のみ国において、贖われた者たちが連なることになる、子羊の婚宴と呼ばれる宴、食事会をほうふつとさせるものです。私たちは今、教会で一緒に食事をすることによって、やがてみ国において神様が準備してくださり、イエス様と一緒にテーブルに着くことになる、素晴らしい食事会を望み見るのです。教会で一緒に食事をするごとに、天のみ国で、すべての贖われた人たちと、一緒に集い、イエス様と一緒














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2013年08月17日

日本人に私たちの信仰を紹介する

 
              創世記1:1
 
創世記1:1は、多くの神々を拝んでいた当時の人々に対する、天地創造の神の自己紹介です。神はここで、ご自分が多くの神々とはまったく次元の異なる万物の作り主であることを現して、ご自分を紹介をしておられるのです。神は、人間が礼拝すべき本当の神はだれなのか、はっきりさせなければならなかったのです。 

現代の日本も同じ状況にあります。私たちは、私たちが礼拝している方を、上手に紹介しなければならないのです。でも、唯物論に強く影響され、神なんていないと言ってはばからない日本人に、「天地創造の神」と言って紹介するのでは、ギャップが大きすぎます。どのようにしたら良いのでしょう。


T. 自分の本当の宗教心に気づかせる  

 日本人は非常に混乱した宗教感覚の中に生きているために、自分自身の宗教心について、あるいは信仰について正しく理解していません。それを気づかせてあげることが大切です。

@ 消えない宗教心   多くの日本人は神なんて存在しないといいながら、神社に参拝し、お寺に詣でます。人間には神に似せられて造られたという事実が残っているために、宗教心を消し去ることができないためです。
A 崇高なお方   ほとんどの日本人は、自分たちは多くの神々を信じていると考えていますが、その多くの神々をばかばかしいとも思っています。だから、神なんていないというのです。日本人が本当に感じているのはこの多くの神々ではなく、どこにでもおられ、すべての物の内に潜んでおられる、唯一の大きな存在です。
B 感謝の心   日本人の多くは、自分は生きているのではなく、生かされていると感じています。そしてそのことに感謝の気持ち、ありがたいという心を持っています。それを認めないのは傲慢であり、人間として未熟だとさえ思われています。
C どうしたら良いのか分からない   ただ、日本人はどのように感謝をしたら良いのか良く分かりません。誰に感謝をしたら良いのかが、はっきりしないからです。それで、いろいろ曖昧な宗教的表現が残っているのです。
 

U. 感謝の対象をはっきりさせる  そこで大切なのは、感謝の対象、誰に感謝すべきなのかをはっきりさせることです。

@ 私たちを祝福してくださっているお方  私たちが感謝を捧げるべきお方は、私たちを生かし、私たちにすべての必要なものを与え、はぐくんできてくださった方です。
A 私たち日本人が昔から礼拝してきたお方 このお方は、私たちにとってまったく知らない方ではありません。私たち日本人は、良くは分からないままにも、昔からこのお方を崇め、祀ってきたのです。
B 天地を創造されたお方  そのお方は、日本人に太陽を昇らせ、雨を降らせ、山や森を与え、川や海を与え、すべての緑とすべての生き物を与えてくださった方です。その同じお方を、私たちは天地の創造者として崇め、拝み、感謝し、尊んできました。


V. 不義理をお詫びするように勧める 

 日本人は、感謝の気持ちを持っています。ただ、誰に感謝すべきか、どのように感謝すべきか良く分からなかったために、曖昧なままに過ごしてきました。

@ 大きな不義理を重ねてきた   日本人が祭りや宗教行事で表現してきた感謝は、与えられた大きな祝福と恵みに対比べると、あまりにも乏しいものです。不十分です。これは大きな不義理です。日本人は礼節を重んじますが、こんなところで、大きな不義理を重ねてきたのです。
A 不義理をお詫びする   不義理は、気づいたときにしっかりとお詫びをすることが肝要です。そこから正しいお付き合いが始まるのです。私たちと、天地をおつくりになった大きく気高いお方のお付き合いも、私たちが不義理をお詫びするところから、新たに始まります。不義理を詫びたとき、天と地をおつくりになったお方は、とてもお喜びになり、わたしたちを新たな祝福で覆ってくださるのです。

W. このお方に喜ばれる生き方をするように励ます 

次に大切なのは、このお方に喜んでいただけるような、生き方を心がけることです。

@ このお方を慕って生きる  この方の素晴らしさ、その栄光を称え感謝を募らせながら、このお方を慕って生きるのが大切です。この方は人間を愛しておられ、人間がその愛に感じて、この方を慕って生きることを最も喜んでくださいます。そうすると、私たちはいよいよ、この方の祝福を受け、このお方の守りの中に生きることになります。  

A 互いに愛し合いながら生きる  このお方は人間を特別に愛しておられます。このお方に似せて造られているからです。そのために、人間同士が愛し合って生きているのを、一番お喜びになるのです。神を敬い、人間を愛しながら生きるのが人間本来の生き方であり、人間をおつくりになったお方の、お心にかなった生き方なのです。それは難しい生き方ではありません。なぜなら、そのように生きようとするとき、神が助けてくださるからです。

 充分に感謝してこなかった不義理、しっかりと崇めてこなかった不義理を、私たちは「罪」と呼び、これからはもっと感謝をし、お慕いし、喜ばれるいき方をしますという決意を、私たちは「悔い改め」と呼んでいます。

 このように勧めるならば、日本人を愛し、日本人のためにもみ子イエス様を十字架にかけて救いの道を備えてくださった神様は、その十字架の購いの効力のために、日本人を救ってくださるのです。







posted by まさ at 11:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私たちが生かされている目的

     
      創世記1:26〜31

 私たちは偶然に生まれてきたのではありません。わたしたちがこの世に生存しているのには、生存させられている理由があります。私たちは自分の意思と力で生きているのではなく、大きな意思と力によって生かされているのです。聖書はその大きな意思と力を、天地の創造者と呼んでいます。そのお方を私たちは日本語で、とりあえず、「神様」とお呼びしているのです。
 
 神様は、ご自分の目的を持って人間を創造されたのです。人間にとって最も大切なのは、自分を造ってくださったこのお方の、目的に沿った生き方をすることです。ヒバリにはヒバリとしての生き方が与えられていて、ヒバリとして生きるのが一番よく、ツバメのように生きようとしてはいけないのです。人間には人間としての生き方があって、人間としての生き方をするのが一番いいのです。
 
 多くの人間が、人間としての生きがいを感じられないままに、空しく生きています。それは人間として生まれていながら、人間としての生き方を見失ってしまったためです。


T. 神様の栄光を現す 

 私たちは、ひばりが空に舞い上がって歌い続けるように、神様の栄光を歌い続けるように造られています。人間が生かされている目的は、自分の幸せのためではありません。自分の生き甲斐のためでもありません。人間を造り生かしてくださっている、創造者である神様の、素晴らしさを称え歌い崇めるためです。

 人間の不幸は、この目的を忘れ、自分の幸せや生き甲斐を、第一に求めるところにあります。創造者である神様を差し置いて、被創造物である自分を最初に持ってくるところが問題なのです。それが、創造の目的に反しているために、生活全体が狂ってくるのです。

 人間は神様によって造られただけでなく、特別に、唯一、神様に似せて造られたものです。つまり、第三次元の世界に生きるすべての生物の中で、意識的に創造者である神様を賛美できるのは、私たち人間だけなのです。このことをしっかりとわきまえましょう。そして、そのように造ってくださったことに、感謝を捧げて行きましょう。

 神様を認めてその栄光を賛美し、また、生かされている事実に感謝を捧げながら生きることを、聖書は「神を愛する」という言い方で表現しています。日本語ではむしろ、「神を慕う」という表現のほうが良いかもしれません。神様をほめたたえ、お慕いしながら生きることこそ、聖書に記されている最も大切な戒めです。


U. 人間同士が互いに愛し合う 

 人間は、創造者である神様に似せて造られています。愛である神様に似せられて、はじめから愛し合う動物として造られているのです。だから、人間は一人では生きて行けません。必ず、社会を作って、人付き合いの中で生きるのです。

 神様は、人間が互いに愛し合って生きることを、非常にお喜びになります。それこそが神様の願いです。ご自分が愛の方だからです。人間が幸せに生きるためには、互いに愛し合わなければなりません。そのように造られているのです。順境の時も逆境の時も、人間は愛し合うことによって幸せを作り、それを育てることができるのです。
 
 だから聖書は、自分を愛するように隣人を愛するように教え、これを人間の間での最も大切な戒めとしているのです。人間同士が共に生きるために、聖書にはさまざまな教えと戒めが記されていますが、それらの戒めを総まとめにすると、隣人、すなわち自分以外の人間を愛するということになるのです。
 人間の不幸の原因の第二は、愛し合うように造られていながら、愛し合っていないことです。造られた目的に従って生きていないことです。自分を愛することに夢中になって、隣人を愛することができなくなっているのが、今の私たちの社会です。人間は、自分中心になってしまって、他人の幸せをないがしろにするようになってしまったために、互いに不幸を作り出すようになってしまったのです。
 
 社会がどれほど便利になり豊かになったとしても、愛がなくなってしまっては、人間、幸せになれません。人間が愛し合うものとして造られているという原点に返って、愛し合うことを大切にしましょう。
V. 目的を取り戻す  人間は自分の創造者を慕い、互いに愛し合うことによって、幸せを獲得することができます。創造者の目的にかなうからです。とはいえ、それは簡単ではありません。それをさせてくださるのもまた、創造者による回復の働きです。神様は、人間が造られた時の本来の姿を取り戻すことができるように、手立てを講じてくださったのです。その回復の手立てを、「救い」と呼びます。

 神様による救いの働きは、すでにすべて整っていますので、人間はただこの神様を信頼し、感謝して救いを「贈り物」として受け取るだけでいいのです。幸い私たちクリスチャンは、その贈り物を受け取ることができました。でも、創造者である神様を良く知らない日本人には、その贈り物を受け取ることすら、簡単ではありません。ここで大切なのは、まず、人間には創造者がいると知ることです。次に、その創造者によって目的を与えられて、生かされていると知ることです。

 ほとんどの日本人は、自分は自分の力で生きているのではなく、だれか、偉大な方によって生かされていると感じています。それは人間としての本能的な感覚で、日本人には特に強く残っているのです。その偉大な方が、創造者である私たちの神様です。この方をはっきり意識して、「生かしてくださって、ありがとうございます」と言いながら、生きることです。美しい自然に囲まれて、食べ物も与えられ、住むところも与えられていることを感謝し、そのようにしてくださった神様を崇めて生きることです。

 それから、人間同士が互いに愛し合えるように、まず、自分から愛する人になろうとすることです。ほかの人の幸せのために役立とうと試みることです。ただし、それも簡単ではありません。そこで、神様に祈ることです。「天と地を造り人間を造り、互いに愛し合うように生かしてくださっているお方にお願いいたします。今、私に愛する力を与えてください。憎んだり、うらやんだり、争ったりする心を鎮めてください」と、祈ることです。

 すると、創造者である神様は大いに喜んでくださり、私たち、に愛し合うことができる力を与えてくださるのです。そして、その祈りが創造者である神様を慕うことにつながるのです。





posted by まさ at 11:20| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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