2013年09月19日

互いに赦し合う


マタイ18:21〜35
 
 イエス様は「赦しなさい」と教えてくださいました。ただし、ただ赦すのではなく、主にあって赦すのです。それは自分が先に赦されていることを知って、その赦された喜びと感謝を持って、赦すということです。私たちは神様に赦され、永遠の命を頂きました。神は、私たちを赦すために、イエス様を十字架にさえつけてくださいました。ですから私たちも、たとえ自分が損をしても、犠牲を払っても赦すのです。

 人間は赦さないでいると、どんどん悪人となって行きます。私たちには神に似せて造られた性質があり、良心があります。赦さないでいると、その性質が痛み、良心が疼くのです。それをごまかすために、私たちは自分が受けた小さな損害を拡大したり、歪曲したり、うそを言ってまで、赦さないことを正当化するのです。そのようにしていると、そのうそさえ真実と思えてくるのです。

 韓国の人たちを見ていると、まさに、日本を赦せないだけでなく、赦さないと決心して、自分の国や国民が受けた被害をことさら大きく言い、事実を捻じ曲げ、うそを言い続けるだけではなく、それを信じているとしか思えなくなります。それが、国家というレベルで積極的に行われているために、多くの韓国人が日本人を愛することは難しくなっています。それでも韓国のクリスチャンたちは、イエス様の教えに従って、何とか日本を赦し、日本のために祈り、日本人を愛そうとしています。しかし、国家が率先して日本に対する憎しみを増幅させようとして、間違った情報を流して事実を捻じ曲げてきたために、韓国人クリスチャンの日本人に対する思いは複雑です。あるクリスチャン・グループが「日本人を赦さないで来た罪を悔い改めます」と発表したところ、韓国中から大変な反発を食らってしまいました。

 韓国と日本は、もっと仲良くやって行けそうなものですが、いつまでも赦そうとしないで、自分たちの被害を拡大して語ったり、事実を歪曲したりしていたのでは、日本人も、自分たちが犯した韓国に対する罪を、素直に認めて謝ることはできません。韓国に対しては、日本は戦後の賠償を行い、さまざまな支援活動をしてきました。それだけではなく、韓国を支配したときの日本は、経済的に破綻していた韓国に対して多大の援助をして、経済を立て直しました。多くのインフラを整備して、近代国家の礎を気づきました。でもそのようなことを知っている韓国人は一握りしかいません。韓国には、日本を赦さないで行かなければならない、内的事情があるのかもしれません。

 でも、自分たちの被害を拡大して主張するのは、何も韓国に限ったことではありません。日本人も原爆の被害を言い続けています。被害を受けたのは事実ですが、「何の罪もない何万の人々が死んだ」などと言うのはまったくの誤りで、認識不足です。当時の日本では、「一億総玉砕」というスローガンの下、少年少女たちまで軍事工場で働いていたのです。「何の罪もない」などとは言えないのです。原爆の被害を声高に叫びながら、自分たちの国が韓国を初めとする隣国に犯してきた犯罪については、ほとんど口をつぐんだままです。

 自分たちの被害を大げさに言い、自分が与えた損害を過小に評価するのは、歴史上ほとんどの国々がやってきたことです。40数年前、本土復帰運動が激しかった沖縄では、自分たちが大和の被害者だという認識が非常に強かったものです。そのために、何につけても、被害者であると言い募るのが沖縄の人たちの欠点でした。そこで牧師は、「沖縄の人が大人になるためには、自分の受けた被害だけを叫ぶのではなく、自分がどれほど加害者であったかも知らなければならない」と書いて、沖縄の牧師たちの総スカンを食らったものです。 赦さない結果は、赦せない人をいつまでも不幸にし、次々と新たな争いを作り出すことです。

フィリピンという国は、期間こそ短かったものの、韓国と同じように日本の支配を受けた国です。しかし国民性の違いから、フィリピン人は日本から受けた被害をほとんど言いません。年配の人たちも過ぎ去ったことだと言って、日本人を責めません。戦後20年くらいまでは、日本を憎む声もまだ残っていましたが、30年後にはまったく聞かれなくなりました。かえって、日本が統治したことは、フィリピンにとって益となったという声が多く聞かれるほどでした。有名なバターンの死の行進にしても、記念日として大切にされているものの、それで、日本人の悪口を言う人を聴いたことがありません。かえって、そうしなければならなかった、日本軍の苦悩を理解してくれています。日本の戦後賠償についても、韓国人とは異なって、フィリピン人は結構良く知っています。そういうこともあって、フィリピン人と日本は友好関係にあります。その結果、両国は共に益を受けることができるのです。ただ、日本がフィリピンに損害を与えた事実は事実です。せめて、バターの死の行進について知っている日本人が、もう少し多くても良いと思うものです。

 日本人は、フィリピンだけではなく、台湾に対してもシンガポールに対しても、あるいはミャンマーに対しても、インドネシアに対しても、謝罪と感謝の気持ちを持たなければなりません。彼らは侵略者であった日本を赦してくださっているのです。その赦されている事実を軽んじて、感謝を忘れてはならないのです。

 国家間でも、赦さないでいることは益にはなりませんが、一人の人間としてみると、赦さないのは不幸の始まりです。でも、残念ながら、赦さないのではなく、赦せないことが多いのです。赦せるようになるためにはどうしたらよいのでしょう。

 自分が赦されていることを、しっかりと知り、常にその自覚を持ち続けていることです。神はキリストの死という犠牲を払ってまで、私たちを赦し、永遠の命を下さり、ご自分との交わりを回復してくださいました。その事実を常に思い起こし、感謝のうちに生きることです。そのような感謝が私たちのうちに満ち溢れているとき、私たちは赦すことができるのです。韓国のクリスチャンたちの多くは、日本を赦そうとしています。ありがたいことです。願わくは、その上に客観的に物事を見、公平に判断する冷静さをもってほしいと思います。すると、赦すことだけを考えるのではなく、赦されなければならないことも分かってくるのです。そして、すでに赦されていることに驚き、改めて感謝をすることができるのです。そうなると、慰安婦問題でいこじになっている日本人も、素直に謝ることができることでしょう。

 日本人は、国家として慰安婦を狩り集めたことはないと、保証を拒否しするだけではなく、慰安婦があったという事実までも認めない方向に向かいつつあります。韓国の意図たちにとっては、一般民間人がやったか、国家の機関である軍ががやったかはあまり問題ではありません。いずれにしても日本人がやったのです。国家間の保証はすでに済んでいるかも知れませんが、被害にあった一人ひとりの保証はされず、謝罪もされず、人格も無視されたままなのです。







posted by まさ at 11:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

祈りの本筋


 人間はあらゆる動物の中で唯一、祈る動物です。祈るということが人間である証拠です。したがって、祈ることは人間である証明です。人間は神に似せて造られ、神と会話をすることができる能力、資質、あるいは性質を与えられているからです。世の中に宗教が溢れ、神の存在を否定する人でさえ、宗教心を否定できないのはそのためです。


T. 天真爛漫な創造者との会話  

 祈るというと、とかく、困ったときの神頼みといわれるように、お願いや訴えを思い浮かべますが、それは、罪によって人間社会が敗退し、さまざまな苦しみや悲しみや痛みによって、人生が醜く変形させられてしまってからのことです。本来、神がお造りになった完全な世界の中では、人間は、お願いや訴えなどを持つこともあまりなかったはずです。神が人間との関係で期待しておられたのは、暖かく穏やかな交わり、心の交流です。人間は神に造られた幸いな命を謳歌し、毎日を喜び楽しみ、神に感謝と賛美を捧げながら生きることです。そのような人間の幸せな毎日をご覧になり、それを愛で、慈しんでくださり、人間の感謝と賛美を喜んでお受けになるのが、人間をお造りになった神の目的です。つまり、何のことはない、平穏で満ち足りた毎日、親と子が楽しく戯れるような神との関係こそが、神が意図されたことです。
 
 それは、神のみ前に生きていること、神のみ手の中に生かされていることを感じ、その中に安んじ、おおらかに自然を楽しみ、与えられている物事に感謝し、歌いながら生きることです。

 罪に破壊され悪魔の支配下で苦しむ現在の私たちの生活の中でも、成長したクリスチャンはそのような神との交わりを楽しみ、安んじ、心豊かに生きることができるのです。ただし、それは一朝一夕で達成されることではありません。困難や悲しみ、痛みや苦しみを通して会と交わり、神の愛と力を体験し続けることによって、作り上げられるものです。


U. 悪魔の支配下で生きる中での神への信頼の表現  

 私たちの祈りは、分からない人が聞くと、お願いや訴えや泣き言や不平の羅列に過ぎないかも知れません。それでもいいのです。もともと、私たちは立派なお祈りなどができる優等生ではありません。出来損ないで良いのです。だからこそ、神様の哀れみに期待するのです。私たちの祈りは、自分の無力さ、非力さを悟って、神に信頼することなのです。祈りは、神への信頼の表現です。祈りは信仰なのです。めちゃくちゃな、支離滅裂な祈りでも、神はきちっと理解してくださいます。とんでもない祈りでも、神はきちっと聞き、正しくお応えくださいます。心配無用です。神は祈りの言葉ではなく、祈りの心を聞いてくださるからです。だから、信頼して祈るのです。
 
 神を信じることができないというのは、祈ることを知らない人の言うことです。祈っているけど信じられないという人は、お祈りをしているのではなく、心で念じているだけ、祈念しているだけです。祈りは念じることではなく、神に対して話しかけること、話しかける対象をはっきりとさせ、訴えることです。念じることにもある程度の力があるかも知れません。しかしそれは所詮有限の人間の念に過ぎません。祈りを聞き、それを叶えてくださるのは、天地をお造りになった全能のお方であり、キリストをさえ惜しみなく与えてくださった愛のお方なのです。ですから心で念じる祈りではなく、この天地の創造者を信頼して話しかける祈りをしていくならば、必ず応えられ、信頼できることが分かってくるのです。


V. 罪の滅びの世界での祈り 

 聖書を表面的に読むと、神の天地創造の目的、人間の創造の目的に気づくことは困難です。聖書は基本的に罪のために滅びに向かっている人々を救うために与えられた、救いへ導く書物だからです。キリストの生涯と教えも救いが中心でした。パウロを中心にした弟子たちの教えも、神の救いが中心でした。ですから、祈りもまた、救いと助けに焦点が向けられていました。祈りだけではなく、活動も救いに関わるものであり、人生そのものが人々の救いのためとなっていました。それはそれで非常に尊いことです。私たちも人々の救いのために祈り、自分の人生を捧げて行きたいものです。一人でも多くの人が永遠の命を得、神が意図された幸いな人生を送ることができるように、してあげたいものです。

 とはいえ、救われた人々がいただく永遠の命とは何でしょう。突き詰めていくと、神が最初に意図されていた、神との豊かな交わりを楽しむことができる命です。神の恵みを燦燦と受け、神を力いっぱい褒め称える、尽きない交わりの人生です。

 私たちはまだそのような永遠の命、完全な救いを手にしていません。しかし今、それを少しだけ味わうことができるのです。それが祈りによる交わりの中にあるのです。

 お願いでも訴えでも、不平でも不満でもかまいません。神に信頼して語りかけましょう。すると神の答えが与えられ、神が信頼に足る方であることが分かります。すると、神に感謝したくなり、褒め称えたくなります。感謝と賛美こそが祈りの本筋です。





posted by まさ at 11:15| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。