2014年05月20日

なつく



 筆者が親しくお付き合いをお願いしている吉原宣教師を、フィリピンのお宅に訪ねたところ、一羽のパラキートが飼われていました。日本語ではふつう「インコ」と呼びますが、現地の人々はパラキートと言います。オウムとインコとパラキート、どこがどう違うのか難しいことは知りませんが、要するに小型のオウムです。

 奥様がとても可愛がっているこのパラキートは、現地の人たちが「バナナ・パラキート」と呼ぶ最も小さなオウムの仲間で、普段はバナナだけを食べて生きています。捕え方は簡単で、熟したバナナの実の上に糸くずを丸めて括り付けておけば、すぐに捕まえられます。エサの上をガサゴソと歩き回るうちに、糸に足をからめとられてしまって、あえなく終わりということです。

 誰か現地の人にもらったらしい吉原宣教師のお宅のパラキートは、奥様だけになついていて、その愛情の表現は見ていていじらしくなるほどです。奥様も可愛くてしょうがないといった感じで、これでは、パラキートの寿命が終わったときには大変だろうなと、ひそかに心配するほどです。

 むかし、私たちが飼っていたバナナ・パラキートは、悪賢いやつで、自分で入り口の戸をこじ開けては逃走し、戻ってきてはバナナを食べて、また逃げ出すことをくり返していたものです。意地悪をして籠の中にバナナを置いて戸を閉めておくと、ちゃんと戸を開けて中に入ってバナナを食べ、また出て行く始末でした。私たちが住んでいた標高1500mの地には、自然に熟するバナナはありませんので、空腹になったら帰ってくるよりしようがなかったのです。

 そうこうするうちに、とうとう帰ってこなくなりましたので、寿命になったか、猫にでも食べられたか・・・。とにかく、それで終わったのです。私たちは淡々と、「あれ、このところ帰ってこないね」と言っただけです。

 それにしても、吉原宣教師の奥様に甘えるパラキートの様子は、感動ものです。忙しくすれ違う奥様に声いっぱいに呼びかけ、籠の中でも一番奥様に近いところににじり寄り、羽を小刻みに震わせて気を引こうとします。奥様が指でさすってでもやろうものなら、目を閉じて首をかしげて気持ちよさそうに、まるで眠ったようになるのです。でも、眠ってはいません。この鳥が眠るときは、コウモリのように天井からさかさまにぶら下がるのです。

 私たちはペットを飼います。中には、人間の感情がまったくわからない蛇やトカゲ、イモリやヤモリを飼う人もいますが、これは例外です。私たちの多くは、自分に「なつく」動物をペットに選ぶのです。

 我が家で飼った猫は、どれもこれも不細工な姿の猫でした。たいていは何匹か生まれて、姿かたちのいいのはみな貰われて行ったのに、最後に残った「かわいげのない」奴が、仕方なく引き取られてきたのです。今いる「ぱんきん」も、世話しきれなくなったアメリカ人が残して行ったものですが、もともとは捨て猫で、何とも「へんちくりん」な顔をしています。ところが、飼って1年もすると、たいした可愛がり方もしていないのに、すっかりなついてわがまま顔に振る舞い、ときには思いっきり甘えてきます。そうなるともういけません。可愛いのです。情が移ってしまったのです。不愛想な顔つきも「個人差」に見えてきて、愛情をこめて「みったくない奴だなぁ。お前は・・」と抱き上げることになるのです。「みったくない」とは、筆者が子供のころ北海道で使っていた、「不細工で可愛げがない」という意味の言葉です。

 特別に優雅な姿をしているとか、非常に珍しいとかいうのは例外として、たいていのペットに大切なのは、なつくことです。あるいは、なついてきたと思われることです。池の鯉も鉢の金魚さえも同じです。人間は自分になつくもの、つまり心を交わすことができるものを大切にし、可愛がるのです。神様が人間をお造りになったとき、ご自分の姿に似せて人間をお造りになったという記述の重要さがわかります。

 神様もご自分と心を交わすことができる人間という動物を造り、これを愛でてくださったのです。人間が神様になつき、甘えれば甘えるほど、神様は私たちを愛(いと)おしく思ってくださるのです。三次元の動植物の中では、唯一、人間だけが神様に似せて造られ、神様と心を交わすことができる能力を与えられているのです。犬も猫も高等な動物として、ある程度人間と心を通わせることができます。猿はもっとでしょうか。でも、犬もの猫も猿も神様と心を交わすことができません。祈ることも拝むこともできないのです。神様に似せて造られていないためも、神様にはなつかないのです。

 人間は神様に似せて造られ、神様との交わりを楽しみ喜ぶように、初めからプログラムされています。そしてその中で、神様に造られ愛でていただいていることを感謝し、賛美をするのです。人間は単に神様を賛美するだけのために造られた機械ではなく、神様の愛と恵みを交わりの中に感じて、自由意思で神様を賛美します。そこが大切なのです。
 
 創世記の天地創造の物語の中で、「見よ、それははなはだよかった」とくりかえし語られた自然の中に、人間は造られ、生かされ、恵みをたくさん受けながら生活していたのです。それが人間本来のあり方でした。そのように暮らすのが、人間にとって最もよいことであり、神様もお喜びになったのです。

 聖書の中に記録されている様々な出来事も、多くの教えも、数々の戒めも、この素晴らしい本来のあり方を失ってしまった人間が、それを取り戻すにはどうしたら良いかということを教えるために、書き記されているのです。それらの中で最も大切なことは、人間がどのように努力したら、取り戻すことができるかということではなく、人間をお造りくださった神様が、人間に取り戻させるために、何をしてくださったかということです。それはとてもむずかしいこと、非常に困難なことでした。でも、人間を愛でておられる神様は、すべてを完全にやってくださったのです。

 ですから、いま人間にできることは何もありません。することがないのです。ただ、すべてを準備してくださった神様に信頼するだけです。それを教えるために、聖書は書かれたのです。人間は、「ありがとうございます」と感謝をして、「神様は素晴らしいお方ですね」と語りかけ、ほめ称えていくだけです。

 吉原宣教師の奥様が近くを通ろうものなら、思いっきり声を張り上げて気を引こうとするパラキートのように、神様に向かって声をあげ、感謝し、賛美し、お願いし、おねだりをしながら生きていくことです。神様も、ご自分になつくものをさらに愛でてくださるのです。





posted by まさ at 13:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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