2017年12月14日

キリストの信頼



シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
            ルカ22:31〜34
 
引用した聖書の箇所は、イエス様がご自分の一番弟子のペテロが、ご自分を裏切ってしまうとあらかじめお告げになった記事です。ペテロはあだ名でしたので、ここで本名で「シモン」と呼びかけられています。ペテロは強がって「絶対にあなたを裏切るようなことはありません」というようなことを申し立てたのですが、間もなく、イエス様がお話になった通りに裏切ってしまうのです。(ルカ22:54〜62)

 私たちはしばしば自分の弱さ、情けなさ、ふがいなさに、涙を流し、自分が信じられなくなり、自己嫌悪に陥ってしまいます。生きているのが嫌になり、他人と会うのも億劫になります。後悔と落胆にさいなまれ、閉じこもってしまいたくなります。クリスチャンになったとはいえ、そんなときもあるのです。でも、そのような私たちを慈しみ、慰め、なおも信頼し続けてくださるのが、私たちの主なのです。

T. 人間の弱さをご存知の主 

 ペテロはたぶん、壮年を迎えてからしばらくたつ男で、イエス様の一番弟子だと自負していました。年の功でもあり、何につけても、一通りはわきまえていたはずです。ところが、彼はまだ、本当の意味で自分の弱さを知らなかったのです。そのために、人間の弱さそのものにも深い洞察を持っていませんでした。弱い人を思いやったり、心をくばったりすることが不得手だっただけでなく、自分の失敗や間違いを認めて、へりくだることも苦手でした。

 ところがイエス様は、そのようなペテロの弱さと欠点を見越しておられたのです。人間と言うものの弱さを、良くご存知だったからです。

 自分の弱さを知らない人が大勢います。少しは知っていると思われても、実際にはあまり知らない人もたくさんいます。都合のいい時だけ、知っているように振る舞う人間もいます。本当の意味で弱さを知っている人こそ、大切な人、必要な人、他人を助けることが出来る人です。
 
 ペテロが、より良く神様に用いられる人間になるためには。本当の意味で弱さを知る人間になる必要がありました。そのために、あえてこのような試みが与えられたのです。私たちの遭遇する試みの中にも、私たちが神様に用いられる人となるための、神様の試練として与えられるものがあると知りましょう。その試練に積極的に向き合うことが大切です。

U. 人間の弱さに失望なさらない主 

 弱い人を見たとき、また弱さを知らない人を見たとき、私たちはその人に失望してしまいます。怒ったり、軽蔑したり、無視したりするのも普通です。そのような人とは、もう付き合いたくないと言いだしたりします。それもまた弱さであり、弱さを知らないことでもあることにさえ気づきません。

 私たちの主は、人の弱さに失望することがないお方です。ご自分は強いお方なのに、弱い人の弱さをご自分の身に負うために、あえて弱い人となり、弱さを実体験して下さったお方です。イエス様は、罪のために弱ってしまった人間性を、深い同情をもって理解しておられます。その上、そういう人間が作り出す社会の混乱も洞察しておられます。さらに、そういう社会で生きる弱い人間の苦痛を、ご自分で味わってくださったのです。
 
 ペテロの弱さに対して、イエス様はまったくも驚いてもおられません。それをはじめからご存知で、それを前提として、ペテロを選び、お召しになったのです。私たちも、いまさら自分の弱さを恥じる必要はありません。私たちが自分を知らなかったときに、イエス様は私たちを深く知ったうえ、私たちを召してくださったのです。イエス様は私たちが立ち直ることをご存知で、それを期待しておられるのです。

V. 人間の弱さを超えて信頼してくださる主 

 私たちが人を雇うとき、信頼のできる人間を選びます。ところがイエス様は、信頼できない人間であることを前提に、弟子たちを呼び寄せてくださいました。イエス様は完成した人間ではなく、これから成長する人間を探しておられるのです。日本語の聖書ではうまく翻訳できず、意味が弱くなっていますが、もともとの聖書では、イエス様がペテロをお召しになったとき、「私はあなたを作り上げよう」とおっしゃったのです。イエス様は、人間を作り上げることが出来る方であるため、未完成の者でもいいのです。

 イエス様はまだまだ弱く信頼に足りないペテロを信頼し、弟子とし、訓練し、用い続けてくださったのです。しかも、弱さを心底体験したペテロが、将来どのような人間に成長するかも、始めから見通しておられます。それで、お語りになったのです。「あなたが立ち直ったときには、他の者たちを励ましてやりなさい。」

 私たちの今がどのようであっても、弱さをまったく知らなくても、生半可に知るだけであっても、弱さに泣き崩れているところであっても、イエス様は私たちを理解し、それぞれを神様に役立つものに育てようとしておられます。弱い自分たちに信頼を置くのではなくこのイエス様を信頼して歩み続けましょう。そして、神様のご栄光のために、人々の慰めと励ましのために用いられる者に、作り上げていただきましょう。




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2017年12月13日

あなたは愛されています


        (Tヨハネ4:8)

私たちの神は愛の神です。時というものが始まる前の永遠から、愛の神として存在していました。唯一の神が愛であるためには、複数の格を持っておられなければなりません。父・子・聖霊という格の間で、愛が保たれてきたのです。

 私たちはこの神を自分たちの神として拝み、崇め、慕い、敬っています。他に神と呼ばれるものがどれほどたくさんあっても、自分たちの神とはしません。この神だけが私たちの神です。
私たちは初めから神に愛されています。私たちは神の愛の対象であるから、神に愛されているから、とても、とても大切な存在なのです。

T. 創造に顕された神の愛  

 神はご自分の愛の対象として、愛するために人間をお造りになりました。動物も植物もその他のすべての自然物が、神の愛の対象として造られましたが、人間だけは特別に、神に似せて造られています。なぜ人間だけなのかはわかりません。ただ、人間は唯一、神様と同じ性質を持つ動物として造られているのです。それは、人間が神を感じ、神を知り、神と交わり、神を礼拝し、神を崇め、神を敬い、神を賛美し、神に感謝を捧げることが出来る動物として、つまり神の愛を感じ、神を愛することが出来るように、特別に造られているということです。人間以外に神を感じ、意識的に神を礼拝する動物はいないのです。神の愛を感じる動物は他にいないのです。人間は特別な動物です。あなたは神に愛されているのです。

 だから人間は美しい自然環境におかれ、生かされています。必要なものが全て与えられているのです。神は、人間が幸せに生きることを喜び、幸せに生きることが出来るように、すべてを整えておられるのです。

U. 贖いに顕された神の愛 
 
 ところが人間は、創造の最終段階で不完全なものとなっていまいました。神は人間を完全な自由意思を持った存在にし、その自由意思を持って神に忠実なものとなるように、定めてくださったのですが、人間はその自由意思で神に従わない道を選んでしまったのです。それが罪です。神は、人間が初めから愛し従うことしかできない、自由意思のない飼い犬のようになることを、お望みにならなかったのです。

 この不従順の罪のために人間の秩序が乱れてしまいました。人間の心と肉体が病むようになっただけでなく、人間の住む自然の世界の秩序も破壊されて、自然災害が起こるようになりました。それだけでなく、人間は罪の力に拘束され、悪魔の支配に陥ってしまったのです。人間は神の愛と祝福を充分に受けることが出来ない状態になりました。神の命から切り離されて、滅んでしまったのです。

 ところが神は、このような人間を見捨てずに愛し続け、人間を滅びから救い出し、もとの祝福の中に入れ、神の命と愛を楽しむことが出来るように、滅びから命に入ることが出来るように、救いを準備してくださいました。それが、神のひとり子、救い主イエスの十字架による身代わりの死です。神は罪を犯した人間の罪の刑罰を、すべて救い主イエスに背負わせ、十字架で死刑にしてくださったのです。それによって、人間の罪は許され、神との交わりが回復され、滅びから免れて永遠の命に入れていただくことが、できるようにされたのです。ここに神の愛が顕されています。自分が無価値に感じたり、生きて行くのが嫌になったりしたとき、イエスの十字架を思い起こし、愛されていることを確認し直しましょう。あなたは愛されているのです。

V.日常に顕される神の愛 

 神は、愛するために私たちを造ってくださいました。そして愛し続けるために、救い主を十字架につけてくださいました。私たちクリスチャンはその神の愛を受けて、いま永遠の命を頂いています。神との交わりを回復させられています。だから、もっともっと神の愛を満喫すべきです。神の愛を感じられないままでいるのは、非常に残念で、情けないことです。

 ではどのようにしたら、神の愛を感じることが出来るのでしょう。まず、聖書を通して、自分が愛されているという事実をしっかりと認識することです。自分には命が与えられ、美しい自然環境が与えられ、食べ物が与えられ、住むところが与えられ、着るものが与えられていることを感謝しましょう。生かされていることを、もっと実感しましょう。自分が愛されるために造られたと言うことを、くり返して想いだし、感謝の祈りを捧げましょう。

 次に、救い主イエスの十字架を、いつも見上げてそこに溢れ出ている神の犠牲の愛、救い主イエスの痛みを超えた愛を想い、たくさん感謝し、賛美しましょう。その上さらに、毎日の一つ一つの出来事に神の配慮と導きと守りを感じて、感謝を捧げて行きましょう。

 愛を感じるには、お付き合いが大切です。神の愛も、神とのお付き合いがあってこそ、実感できるものです。お付き合いは感謝と賛美の祈りによって始まり、保たれるものです。

W.永遠に顕される神の愛 

 現在の私たちが感じる神の愛は、まだまだ限られています。神との交わりがまだ完成していないからです。神との交わりの完全な回復は、やがて訪れてきます。聖書の教えによると、神はこの世界をまったく新しい、完全なものに造り替えてくださいます。その完全な世界に私たちを入れてくださいます。でも、その前に、私たちが最初に造られたときのように、完全な姿に戻して頂けます。心も肉体も完全にされた上、さらに、完全な自由意思で神を礼拝し、神に従うことが出来るように、造り替えられるのです。

 その時、私たちは聖い大きな神様と、完全な愛の交わりを楽しむことが出来るようになり、造りかえられた人間同士が豊かで深く清らかな、完全な愛を楽しむことが出来るようになるのです。愛の神は、人間を愛し、人間に敬愛されることをお喜びになり、さらに人間同士が愛し合って生きる姿を、お喜びになるのです。そのように変えられた私たちが、新しく作られる天と地に入れていただけるのです。

 私たちは愛されています。悲しいときにも苦しいときにも、自分の価値が見えなくなって落ち込むときも、愛されていることをもっと実感して、感謝をもって神を崇めましょう。愛し合いながら生きて行きましょう。




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2017年12月12日

遣わされたキリスト


   (ヨハネ17:18)

 クリスマスの単純な見方は、救い主の誕生です。それはまさに喜ばしいことであり、ひとびとは「おめでとう」と言いかわします。ただしそれは、神にとって、またキリストにとっては、まったく違う意味を持っている事を知らなければなりません。

T. キリストは遣わされた。

 クリスマスはキリストの誕生日というのは人間側の理解です。しかしキリストはこの日に生まれたのではありません。キリストは永遠の存在者であり、生まれる前から生きておられたのです。キリストご自身がそのように語っておられます。(ヨハネ8:58)ヨハネとへブル書の著者は、キリストを永遠の存在としてだけでなく、万物の創造主であると語っています。そのお方が、この人間の世界に、弱々しい赤子の姿で遣わされてきたのがキリストなのです。パウロは、キリストが神のみ姿を捨て、ご自分を無にして仕える者の姿をとり、人間と同じになられたと説明しています。

 クリスマスにおけるキリストの降臨は、キリストの自己否定、謙卑の姿で、たいへん大きな犠牲であり、痛みを伴うことだったのです。そのためにクリスマスが、「・・・・ほどに」という表現で語られる、人間に対する神の深い愛の現れとして語られるのです。(ヨハネ3:16)
私たちがキリストの降臨を記念して、その痛みの大きな犠牲に感謝をするのは良いことです。しかし、「イエス様お誕生日おめでとうございます」と言うのはやめましょう。見当はずれ、的外れも甚だしいことです。神が人の為に犠牲を負ってくださったのがクリスマスです。私たちも、人の為に犠牲を負える者になりましょう。

U. 遣わされた目的  

 キリストがこの世に遣わされたのは、この世の生活を楽しむためではありません。かえって、この承継の支配する世界に罪に捕らわれて生きる人々、永遠の滅びの道をひた走りに走っている人たちを、救い出すためでした。その救いの方法は、人々の罪を背負って十字架で罪の刑罰を負って殺されることでした。
 
 さらに、人々の罪を身代わりに死ぬだけではなく、三日後に甦り、甦りの力を人々に付与し、新たな命を与えるためでした。一言でいうと、キリストの降誕目的は贖いの業の完成です。
 
 大きな意味で贖いの働きの中に含まれる、もう一つの大切な分野は、
キリストのみ体と呼ばれる教会を建てることでした。キリストの十字架と復活の業を、すなわち罪びとの救いの業を、キリストが天にお帰りになった後にも継続することができるように、弟子たちの共同体である教会を建て、これに使命と力を与えて、世に送り出すことでした。私たちは今、教会として、キリストのみ体として、キリストが遣わされた目的と同じ使命を与えられているのです。それは福音を宣べ伝えることです。

V. 遣わされた生き様 

 キリストがこの世に遣わされたのは、ただ人々の罪を負って殺されるためだけではありません。この世で生きる生き方も定められていました。キリストは貧しい人々、弱い人々と共に生きるという、生き方、生きる姿も、神の愛の現れとして実践してくださいました。パウロの言い方を借りると、「人と同じようになって」、最後まで人として、人と共に生きてくださいました。       

 それはへブル書の著者によると、甦っていま天において私たちの為にとりなしの働きをしてくださっている、大祭司キリストが、人の痛みと苦しみをことごとく理解したうえで、とりなしてくださることができるためだったということです。

 私たちキリストのみ体に所属するクリスチャンも、世の中の人たちと痛みを共にしながら生き、痛みを理解して痛みによって開かれた福音を語り伝えるのです。

W. 私たちに引き継がれた働き 
 
 キリストは「私が遣わされたように、私もあなた方を遣わします」とおっしゃり、私たちを地の果てまでも送り出してくださいました。私たちは、キリストが遣わされたように遣わされている「キリストの大使」です。いまこのクリスマスのシーズン、改めて、キリストが遣わされた意義と目的と姿を理解し、わたしたちも、それと同じ意義と目的と姿をでこの世に送り出されていることを確認しましょう。そして、遣わされている者にふさわしい生き方をする決意を新たにしましょう。

 キリストはクリスマスとして記念される出来事で、この世に来て下さり、十字架の働きをもって人間の罪の贖いを完成し、救いの道を開いてくださいました。いまキリストに従う私たちは、キリストが開いてくださった救いの道を指し示す人なのです。キリストが完成してくださった和解の福音を伝える、重大な使命を持ったキリストの大使なのです。


posted by まさ at 14:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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