2017年12月12日

幼子を訪ねて来た人たち


          ( ルカ2:1−20、マタイ2:1−15 )

 イエス様が誕生されたとき、二組の人たちが訪ねてきました。一組は、その夜、野宿しながら羊の番をしていた羊飼いたち、もう一組は多分それからしばらくの日数がたって、イエス様がガリラヤ地方に落ち着いたのちに訪ねてきた、東の国の星占い師たちでした。

T. 羊飼いたちの来訪 

 全人類の救い主の誕生にしては、何ともみすぼらしい人たちの来訪を受けたものです。当時の羊飼いは貧しく粗野な人々の代表です。世界の造り主がお生まれになったのも家畜小屋であり、最初のゆりかごが飼い葉桶でした。

 この貧しさとみすぼらしさ、身分の低い人たちとの交わりこそ、イエス様の全生涯を象徴するものでした。この羊飼いたちにイエス様の誕生を知らせ、馬小屋に向かわせたのは天のみ使いたちであり、神の御心でした。ここに、神の貧しい者や弱い者に対する思いが表されています。

 イエス様は、いわば就任演説の様な場で、イザヤ書を引用して「主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、私に油を注がれた」とおっしゃった上、「きょう、聖書のみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」と、宣言しておられます。イエス様もまた、ご自分が貧しい者と特別なかかわりを持つ働きをすることを、自覚しておられたことがわかります。(ルカ4:18−21)

 私たちはこの神様の御心、イエス様の特別な思いを理解して、自分たちの生きかたとしなければなりません。アメリカをはじめとする諸国の、利益至上の資本主義自由経済市場と手を組んだアメリカ型キリスト教と、私たちは手を切らなければなりません。世界史を見ても、キリスト教の主流派はいつも世の中の流れと手を組んで、世俗に流れていました。この点を厳しく自覚しなければなりません。現代の福音的キリスト教と言われる私たちも、アメリカ型経済という流れに乗っています。少数派になるかもしれませんが、私たちは日常の生活で、今の流れに逆らった生き方をしたいものです。そして自分たちより貧しい者に対する思いやりを、常に持ち続けましょう。

U. 星占い師たちの来訪  

 ここで言われている東方の博士たちとは、東の国の星占い師たちのことだと言われています。彼らはユダヤ人ではなかったと思われます。星に導かれとか、星がとどまったとか言われていますが、これは肉眼で確認できるような星の動きではなく、彼らなりの器具を用いた観察によるものでしょう。その星を動かしてくださったのは神様です。

 大切なのは彼らがユダヤ人ではなかった、異邦人であったということです。旧約聖書はユダヤ人に与えられた律法ですが、そこでは占い師は人を惑わすものとして禁じられています。ユダヤ人の生き方はモーセの律法によって定められているため、占いなどに頼ってはならないのです。ところが彼らはユダヤ人ではありませんでした。そして、たぶん、人を惑わして金儲けをする占い師ではなく、真面目に人生を考える占い師だったのでしょう。

 そのような占い師に神様が語り掛け、救い主のもとに送って下さったという事実が大切なのです。神様はユダヤ人以外にも、語ってくださるのです。聖書も読んだことがない異邦人にも、神様は語り掛けて、正しい方向へ導いてくださることがあります。人間にはもともと、神様ご自身によって神様ご自身に似せて造られたものです。神様と心を通わせることができる能力があるのです。日本人に福音を伝えるのは私たちクリスチャンの役割ですが、神様はまだ福音の届いていないところでも、人の心に働きかけられることがあるのです。この東の占い師の物語は、そのような神様のお働きの象徴です。

V. 夢や幻などの聖書によらない励まし 

 羊飼いたちも占い師たちも、簡単には聖書に手の届かないところにいました。聖書の教えについて人づてに聞くことはできたことでしょう。そのような、いわば中途半端な人々に、神様は、夢や幻や御声などの方法で、御心を教えてくださることがあります。 

 信仰が高く、立派なクリスチャンだから夢や幻を見、御声を聞くのではありません。まだ聖書をあまり知らない中途半端なクリスチャンが、大事な岐路に立っているときなどに、聖書によらない導きを得ることがあるのです。聖書をしっかりと知りそれに信頼して行動することを覚えていると、夢も幻も御声もほとんど不要なのです。
 現在イランでは、クリスチャンたちはモスリムによって激しい迫害を受けていますが、クリスチャンの数はものすごい勢いで伸びています。多くの場合、聖書も持てない、聖書知識も少ない人々の活動によって、クリスチャンが増えています。そのような中に在っては、夢や幻や御声などによる導きが、決定的な要素にもなっているということでした。

 私たちは今聖書を自由に読めることを感謝しましょう。そのような中で、夢や幻や御声を強調しすぎて、しっかりと聖書を読み、これに聞くことをしないキリスト教には警戒しましょう。しかし、信仰の弱い人に神様が特別な憐みによって、励ましを与えてくださることもあることを、軽視しないようにしましょう。
 
☆☆ キリストの誕生は旧約聖書にたびたび予言されており、聖書を良く知っている人はかなり理解することができました。しかしいつどこにという、こまごまとしたことまではわからなかったのです。また聖書に手の届かない人々もいました。そこに神の哀れみの余地があったのです。






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イエス様の選び

  
  (マタイ4:17−22、11:28−29、ルカ9:1−6)
 
 イエス様の教えや人々の取り扱いは、一様ではありません。時と場合、状況と必要に応じて教え、また、一人一人の人物、能力、性格、社会的立場などを良く考慮し、見極めたうえで最善の取り扱いをしておられます。私たちが聖書を読むとき、ただ漫然と読むのではなく、そのようなことを理解して、注意深く読み解く必要があります。

T. すべての人をお招きになるキリスト

 先の礼拝会でお話ししたように、イエス様の招きはすべての人を対象としています。人種、男女、職業、貧富その他いかなる差別も超えた、普遍的な招きです。実際のところ、イエス様が最も気遣い、優しく接してくださったのは、貧しく弱く、無学で権力などからほど遠い、いわば差別される側の人々でした。それが、救い主である証拠とさえされたのです。

 これらの中の多くの者は、どのように教育を与え、機会を与え、金銭を与え、役職を与えたとしても、歴史に名を残すような働きをすることは難しい、平々凡々たる人々だったのです。イエス様はこのような人々が、ご自分の立派な弟子として成長し、イエス様のお働きを継承して行く者になることなど、はじめから期待してはおられませんでした。イエス様が彼らに期待なさったのは、天と地をお造りになり自分たちを生かし続けくださるお方に、単純に信頼し、感謝と憧憬の心を持ち、思い煩わず、心配せず、互いに助け合い慈しみ合いながら、おおらかに生きることでした。

 私たちはクリスチャンとして、すなわちキリストに従うものとして、ついつい厳しい鍛錬と収斂の道を選ぼうとしてしまいます。イエス様の様にはなれなくても、パウロのようになることは無理でも、せめてペテロかヤコブくらいにはなりたいと努力をしてしまいます。でもイエス様はそのようなことを望んではおられないのです。彼らが家を捨て、親兄弟を捨ててまで、ご自分に従うことなど求めておられないのです。ただ単純に天地創造の主を崇め、感謝を捧げ、互いに愛し合いながら生きること、そしてそのような生き方の素晴らしさを、身をもって示し、語って行くことが、圧倒的多数の凡庸な人間にお求めになることです。
 
U. 特定の人だけをお選びになるキリスト  

 ところがそのような凡庸な人々の中に、イエス様の働きを継承して行ける資質と能力を持った人々が、僅かながらいるのです。指導者となれる素質を秘めている人たちです。理解力も行動力も忍耐力も決断力も持久力も、まだ表面には現れていなくても、密かに持ち合わせている人々です。イエス様はそのような人々を特別に、ご自分のそばにいてご自分に学び、ご自分の後継者になれるように、お選びになったのです。

 イエス様は「人間を造る」ことができるお方です。つまり、学問や訓練で出来上がった人間だけではなく、無学で粗野な人々の中にも資質を見出して、訓練して作り上げることができたのです。だからイエス様は、あえてガリラヤの僻地の小さな町で、粗野な漁師たちの間から、将来ご自分の弟子のリーダーになる者を、お選びになって、おっしゃったのです。「人間をとる漁師にしてあげよう」。これは漁師に造り上げてやろうという意味です。イエス様は作り上げる力を持っておられるのです。あからイエス様は、出来上がった人間を選ぶ必要はなかったのです。これは、資質を内に持っている人は、意外に多いということを示しています。ただ、それを上手に見出し、造り上げる能力を持った者が少ないのです。

 このような目的で選ばれた人々に対する、イエス様の訓練と要求は非常に厳しいものでした。学問的な面はあまり要求されていないようですが、徹底した献身と自己放棄が求められました。イエス様に従うためには、親兄弟までも捨て、家も地位も名誉も放棄しなければなりませんでした。そのようなものに後ろ髪をひかれるようでは、「私にはふさわしくない」と、はっきりと拒絶されてしまったのです。

 私たちの中にも、イエス様の働きを受け継ぐことができる「資質」を、内に持っている者が存在するはずです。でもそれは資質として内に隠されているだけではだめなのです。厳しい訓練と鍛錬、学びと習得を通して、それが表に現れてこなければならないのです。中途半端な気持ちで始めて、途中で音を上げ投げ出してしまって元も子もありません。その粘りとか忍耐とか言われるものも、大切な資質なのです。

V. それぞれへの教えと対応 

 1日に3時間も4時間も祈る生活、家も田畑も売り払ってイエス様に従う生活が、すべての信徒に求められているのではありません。そんな風に極端な信仰を教えている牧師や教会もありますが、それは怪しい教えです。信徒たちには家も持ち物も売り払って神様に捧げなさいと教え、自分はそれで大儲けしようとしている「牧師先生様」と呼ばれる人種もいるのです。

 私たちの多くは凡庸な人間です。ペテロや12弟子たちのように、イエス様に従おうとするのも良いですが、イエス様に従うことができる資質を持っているかどうか、祈りと瞑想をもって、また、キリストのみ体である教会の意見を聞いて、自分を吟味してみることをお勧めします。牧師になってはいけない人が、つい熱心さを先走らせて思い込み、あるいは救いの感謝に溢れて後先も考えずに牧師になってしまうことがあります。でも、献身も自己放棄もできないために、いつも信徒といさかいを起こし、つまずきの元となってしまいます。

 反対に、牧師になる資質を持ち、宣教師になる賜物さえ持っていながら、それに気づかないクリスチャンもいます。あえて気付かないように「頑張って」いるクリスチャンさえ、少なくありません。「私に従ってきなさい。人間をとる漁師にしてあげよう」というイエス様のみ声を、心の耳で聞きながら聞こえないふりを続けている人もいるのです。そのような人が、ただ凡庸に天地の造り主に感謝を捧げ、礼拝し、人々を愛する生き方を続けるだけでは、その人の人生の目的が達成されず、人生に満足感も持つことができません。主は賜物をお与えになるとき、それが最善に用いられるように願いながら、お与えになっているのです。宝の持ち腐れにしてはならないのです。

 主はそれぞれの人間の最高の生き方を望んでおられます。それが、凡庸な人間として生きることならば、喜んで凡庸な人間として、造り主を讃え、互いに愛し合い、人生を謳歌していきましょう。空の鳥、野の花に学びましょう。でも、12弟子たちのように、イエス様に従うように選ばれているという自覚を持ったならば、何もかも捨てて、徹底してその道を歩みましょう。どちらも、祝福の道なのです。

 指導者は有名で偉い人物になれるから素晴らしいのではありません。凡庸な人々が、主を崇め互いに愛し合うことができるように、自らを捨てて奉仕をするのが指導者であり、凡庸な人々がいてこその指導者なのです。大切なのは指導者ではなく、凡庸な人々、大衆です。指導者のために大衆があるあるのではなく、大衆のために指導者があるのです。








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2016年05月21日

万人預言者

                 
                   万人預言者
                 
                 使徒2:17〜18


 ペンテコステの日に起こった出来事は、キリスト教の歴史の中でも非常に大切です。それは新しい時代の幕開けでした。旧約時代は、主に父なる神が表に出てくださっていました。それからキリストが誕生され、子なる神のお働きに焦点が集まりました。それがこの日を境に、聖霊なる神のお働きに重点が移っているのです。
 昇天されたキリストが、「別の助け主」である聖霊をお送りくださって、弟子たちの交わりの内に住んでくださるようになったことにより、弟子たちの一団は単なる人間の集まりではなく、聖霊の宮、教会となり、キリストの体となったのです。
 またそのとき、預言者ヨエルの預言が成就し、すべてのクリスチャンは預言者とされたのです。そのときまでは、特別に神の霊を注がれた少数の人だけが、預言者になることができたのですが、このときから、すべてのクリスチャンが預言者とされるようになったのです。

T.預言者の意味 

 今のキリスト教会には、「預言者」を自認して、「神はこう言われる」と宣言して回る人たちが大勢います。ある教会では、預言者の学校を開き、預言の練習をしているということです。大勢の人がその預言といわれるものに惑わされ、さまざまな問題に陥っています。いま預言者を自認する多くの人が言う預言者は、新約聖書が言う預言者とは意味が違います。
 預言者というのはふつう、神様からの直接の啓示を受けて、それを語る人と考えられていますが、実はそれだけではありません。神からの直接の啓示がなくても、普段から神のみ心を正しく学び、人々に教える役割を担っていたのです。
 いまは聖書が完結しています。神が人間に伝えようとされる基本的なことは全て、聖書に記されているということです。ですからいまは、聖書が完結していないときとは違い、新しい啓示や預言の必要性が、小さくなっています。そのため現在は、直接の啓示が頻繁にあるわけではありません。現代の啓示の多くは、聖書をしっかりと学んでいれば必要のないものです。聖書をまだよく知らない人に、特別な助けとして啓示が語られて、預言となることが普通です。従って、聖書の教えに反する預言はあり得ず、聖書が語っていない、新たな重大な出来事についての預言もありません。ところかまわず預言をして歩く人、聖書の原則に反した預言をする人、聖書に書かれていない重大事について預言をする人は、すべて偽の預言者です。彼らの言うことを聞いてはならないのです。

U.神の言葉を語る 

 預言者の絶対の条件は、神の言葉を語るということです。直接の啓示の場合もあれば、常に神のみ心を学んでいて、それを語り、広い意味で神の言葉と認められる場合もあります。日本語聖書の多くが予言という普通の言葉を使わず、預言、つまり神から預かった言葉を語るという意味にしているのは、そういうわけです。(聖書の原語の意味からすると予言が正しい)
 では、預言者は聖書学者とどこが違うのでしょう。旧約の時代にも、聖書をしっかりと勉強して神の言葉を語ることができた聖書学者たちがいました。彼らが預言者とは認められなかったのは、彼らの学びと教えには、聖霊の直接の介入が認められなかったためです。そのために彼らの教えは、あたかも講義のようでした。
 現在でも聖書学者はたくさんいます。聖書を真剣に学んでいる牧師たちも大勢います。彼らが預言者と認められないのは、学ぶときも語るときも聖霊の介入を期待せず、また認めず、人間の知的理解として語るためです。それでは講義と変わりがないのです。
 聖霊のお働きを強調するペンテコステ派の正しい教会では、聖書を学ぶときも、聖霊の助けと導きを祈り求め、期待します。語るときにも、その言葉が本当に生きた言葉となって、聞く人に訴えるように祈り期待します。すると、聖霊が導いてくださって、聖書の教えに深い意味を見出し、必要な人に必要な言葉を必要なときに、聖霊の感動に押し出されて、語ることができるようになります。すると説教も個人伝道も証も、単なる人間の言葉ではなく、預言となるのです。

V.  聖霊の励ましによって神の言葉を語る  

 今の私たちはみな預言者となって、神の言葉を語ることができます。また、語るように期待されて、聖霊の励ましを受けています。全てのクリスチャンが預言者になれるのです。いまやそういう時代になっているのです。しかし現実には、ほんの一握りのクリスチャンが、預言者になっているだけです。どういうことでしょう。
 救いは全ての人に提供されているのに、それを実際に自分のものにするのはわずかだけです。異言も全てのクリスチャンに開かれている賜物です。でも、全てのクリスチャンが異言を語るのではありません。
 私たちは救いをいただきました。ですから、異言で祈ることができるようになりましょう。そして、大胆に預言をすることができるようになりましょう。私たちが神の預言者となって、神が準備してくださった救い、キリストが命を犠牲にして完成してくださった救いを、聖霊の感動を感じながら、大胆に語って行きましょう。
 ただ聖書を読み勉強するだけではなく、聖書を書かせてくださった聖霊の導きと解き明かしを期待し、祈りながら読み、祈りながら学びましょう。聖書の教えや聖書の言葉をだれかに語るとき、ただ語るのではなく、聖霊が正しいときに正しい人に正しく語らせてくださることを期待して、祈りながら語りましょう。すると、聖霊が私たちの心を感動させ、聞く人の必要にあわせて、大胆に語らせてくださるようになります。そのとき、私たちの言葉は預言となるのです。神は全てのクリスチャンが預言者となって、キリストが十字架でを通して完成された福音を、全世界に宣べ伝えることを期待しておられるのです。



posted by まさ at 22:10| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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