2013年08月17日

日本人に私たちの信仰を紹介する

 
              創世記1:1
 
創世記1:1は、多くの神々を拝んでいた当時の人々に対する、天地創造の神の自己紹介です。神はここで、ご自分が多くの神々とはまったく次元の異なる万物の作り主であることを現して、ご自分を紹介をしておられるのです。神は、人間が礼拝すべき本当の神はだれなのか、はっきりさせなければならなかったのです。 

現代の日本も同じ状況にあります。私たちは、私たちが礼拝している方を、上手に紹介しなければならないのです。でも、唯物論に強く影響され、神なんていないと言ってはばからない日本人に、「天地創造の神」と言って紹介するのでは、ギャップが大きすぎます。どのようにしたら良いのでしょう。


T. 自分の本当の宗教心に気づかせる  

 日本人は非常に混乱した宗教感覚の中に生きているために、自分自身の宗教心について、あるいは信仰について正しく理解していません。それを気づかせてあげることが大切です。

@ 消えない宗教心   多くの日本人は神なんて存在しないといいながら、神社に参拝し、お寺に詣でます。人間には神に似せられて造られたという事実が残っているために、宗教心を消し去ることができないためです。
A 崇高なお方   ほとんどの日本人は、自分たちは多くの神々を信じていると考えていますが、その多くの神々をばかばかしいとも思っています。だから、神なんていないというのです。日本人が本当に感じているのはこの多くの神々ではなく、どこにでもおられ、すべての物の内に潜んでおられる、唯一の大きな存在です。
B 感謝の心   日本人の多くは、自分は生きているのではなく、生かされていると感じています。そしてそのことに感謝の気持ち、ありがたいという心を持っています。それを認めないのは傲慢であり、人間として未熟だとさえ思われています。
C どうしたら良いのか分からない   ただ、日本人はどのように感謝をしたら良いのか良く分かりません。誰に感謝をしたら良いのかが、はっきりしないからです。それで、いろいろ曖昧な宗教的表現が残っているのです。
 

U. 感謝の対象をはっきりさせる  そこで大切なのは、感謝の対象、誰に感謝すべきなのかをはっきりさせることです。

@ 私たちを祝福してくださっているお方  私たちが感謝を捧げるべきお方は、私たちを生かし、私たちにすべての必要なものを与え、はぐくんできてくださった方です。
A 私たち日本人が昔から礼拝してきたお方 このお方は、私たちにとってまったく知らない方ではありません。私たち日本人は、良くは分からないままにも、昔からこのお方を崇め、祀ってきたのです。
B 天地を創造されたお方  そのお方は、日本人に太陽を昇らせ、雨を降らせ、山や森を与え、川や海を与え、すべての緑とすべての生き物を与えてくださった方です。その同じお方を、私たちは天地の創造者として崇め、拝み、感謝し、尊んできました。


V. 不義理をお詫びするように勧める 

 日本人は、感謝の気持ちを持っています。ただ、誰に感謝すべきか、どのように感謝すべきか良く分からなかったために、曖昧なままに過ごしてきました。

@ 大きな不義理を重ねてきた   日本人が祭りや宗教行事で表現してきた感謝は、与えられた大きな祝福と恵みに対比べると、あまりにも乏しいものです。不十分です。これは大きな不義理です。日本人は礼節を重んじますが、こんなところで、大きな不義理を重ねてきたのです。
A 不義理をお詫びする   不義理は、気づいたときにしっかりとお詫びをすることが肝要です。そこから正しいお付き合いが始まるのです。私たちと、天地をおつくりになった大きく気高いお方のお付き合いも、私たちが不義理をお詫びするところから、新たに始まります。不義理を詫びたとき、天と地をおつくりになったお方は、とてもお喜びになり、わたしたちを新たな祝福で覆ってくださるのです。

W. このお方に喜ばれる生き方をするように励ます 

次に大切なのは、このお方に喜んでいただけるような、生き方を心がけることです。

@ このお方を慕って生きる  この方の素晴らしさ、その栄光を称え感謝を募らせながら、このお方を慕って生きるのが大切です。この方は人間を愛しておられ、人間がその愛に感じて、この方を慕って生きることを最も喜んでくださいます。そうすると、私たちはいよいよ、この方の祝福を受け、このお方の守りの中に生きることになります。  

A 互いに愛し合いながら生きる  このお方は人間を特別に愛しておられます。このお方に似せて造られているからです。そのために、人間同士が愛し合って生きているのを、一番お喜びになるのです。神を敬い、人間を愛しながら生きるのが人間本来の生き方であり、人間をおつくりになったお方の、お心にかなった生き方なのです。それは難しい生き方ではありません。なぜなら、そのように生きようとするとき、神が助けてくださるからです。

 充分に感謝してこなかった不義理、しっかりと崇めてこなかった不義理を、私たちは「罪」と呼び、これからはもっと感謝をし、お慕いし、喜ばれるいき方をしますという決意を、私たちは「悔い改め」と呼んでいます。

 このように勧めるならば、日本人を愛し、日本人のためにもみ子イエス様を十字架にかけて救いの道を備えてくださった神様は、その十字架の購いの効力のために、日本人を救ってくださるのです。







posted by まさ at 11:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

私たちが生かされている目的

     
      創世記1:26〜31

 私たちは偶然に生まれてきたのではありません。わたしたちがこの世に生存しているのには、生存させられている理由があります。私たちは自分の意思と力で生きているのではなく、大きな意思と力によって生かされているのです。聖書はその大きな意思と力を、天地の創造者と呼んでいます。そのお方を私たちは日本語で、とりあえず、「神様」とお呼びしているのです。
 
 神様は、ご自分の目的を持って人間を創造されたのです。人間にとって最も大切なのは、自分を造ってくださったこのお方の、目的に沿った生き方をすることです。ヒバリにはヒバリとしての生き方が与えられていて、ヒバリとして生きるのが一番よく、ツバメのように生きようとしてはいけないのです。人間には人間としての生き方があって、人間としての生き方をするのが一番いいのです。
 
 多くの人間が、人間としての生きがいを感じられないままに、空しく生きています。それは人間として生まれていながら、人間としての生き方を見失ってしまったためです。


T. 神様の栄光を現す 

 私たちは、ひばりが空に舞い上がって歌い続けるように、神様の栄光を歌い続けるように造られています。人間が生かされている目的は、自分の幸せのためではありません。自分の生き甲斐のためでもありません。人間を造り生かしてくださっている、創造者である神様の、素晴らしさを称え歌い崇めるためです。

 人間の不幸は、この目的を忘れ、自分の幸せや生き甲斐を、第一に求めるところにあります。創造者である神様を差し置いて、被創造物である自分を最初に持ってくるところが問題なのです。それが、創造の目的に反しているために、生活全体が狂ってくるのです。

 人間は神様によって造られただけでなく、特別に、唯一、神様に似せて造られたものです。つまり、第三次元の世界に生きるすべての生物の中で、意識的に創造者である神様を賛美できるのは、私たち人間だけなのです。このことをしっかりとわきまえましょう。そして、そのように造ってくださったことに、感謝を捧げて行きましょう。

 神様を認めてその栄光を賛美し、また、生かされている事実に感謝を捧げながら生きることを、聖書は「神を愛する」という言い方で表現しています。日本語ではむしろ、「神を慕う」という表現のほうが良いかもしれません。神様をほめたたえ、お慕いしながら生きることこそ、聖書に記されている最も大切な戒めです。


U. 人間同士が互いに愛し合う 

 人間は、創造者である神様に似せて造られています。愛である神様に似せられて、はじめから愛し合う動物として造られているのです。だから、人間は一人では生きて行けません。必ず、社会を作って、人付き合いの中で生きるのです。

 神様は、人間が互いに愛し合って生きることを、非常にお喜びになります。それこそが神様の願いです。ご自分が愛の方だからです。人間が幸せに生きるためには、互いに愛し合わなければなりません。そのように造られているのです。順境の時も逆境の時も、人間は愛し合うことによって幸せを作り、それを育てることができるのです。
 
 だから聖書は、自分を愛するように隣人を愛するように教え、これを人間の間での最も大切な戒めとしているのです。人間同士が共に生きるために、聖書にはさまざまな教えと戒めが記されていますが、それらの戒めを総まとめにすると、隣人、すなわち自分以外の人間を愛するということになるのです。
 人間の不幸の原因の第二は、愛し合うように造られていながら、愛し合っていないことです。造られた目的に従って生きていないことです。自分を愛することに夢中になって、隣人を愛することができなくなっているのが、今の私たちの社会です。人間は、自分中心になってしまって、他人の幸せをないがしろにするようになってしまったために、互いに不幸を作り出すようになってしまったのです。
 
 社会がどれほど便利になり豊かになったとしても、愛がなくなってしまっては、人間、幸せになれません。人間が愛し合うものとして造られているという原点に返って、愛し合うことを大切にしましょう。
V. 目的を取り戻す  人間は自分の創造者を慕い、互いに愛し合うことによって、幸せを獲得することができます。創造者の目的にかなうからです。とはいえ、それは簡単ではありません。それをさせてくださるのもまた、創造者による回復の働きです。神様は、人間が造られた時の本来の姿を取り戻すことができるように、手立てを講じてくださったのです。その回復の手立てを、「救い」と呼びます。

 神様による救いの働きは、すでにすべて整っていますので、人間はただこの神様を信頼し、感謝して救いを「贈り物」として受け取るだけでいいのです。幸い私たちクリスチャンは、その贈り物を受け取ることができました。でも、創造者である神様を良く知らない日本人には、その贈り物を受け取ることすら、簡単ではありません。ここで大切なのは、まず、人間には創造者がいると知ることです。次に、その創造者によって目的を与えられて、生かされていると知ることです。

 ほとんどの日本人は、自分は自分の力で生きているのではなく、だれか、偉大な方によって生かされていると感じています。それは人間としての本能的な感覚で、日本人には特に強く残っているのです。その偉大な方が、創造者である私たちの神様です。この方をはっきり意識して、「生かしてくださって、ありがとうございます」と言いながら、生きることです。美しい自然に囲まれて、食べ物も与えられ、住むところも与えられていることを感謝し、そのようにしてくださった神様を崇めて生きることです。

 それから、人間同士が互いに愛し合えるように、まず、自分から愛する人になろうとすることです。ほかの人の幸せのために役立とうと試みることです。ただし、それも簡単ではありません。そこで、神様に祈ることです。「天と地を造り人間を造り、互いに愛し合うように生かしてくださっているお方にお願いいたします。今、私に愛する力を与えてください。憎んだり、うらやんだり、争ったりする心を鎮めてください」と、祈ることです。

 すると、創造者である神様は大いに喜んでくださり、私たち、に愛し合うことができる力を与えてくださるのです。そして、その祈りが創造者である神様を慕うことにつながるのです。





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自分を確立する

  
       Tヨハネ4:9〜10

 我が家に転がり込んできた猫は、アメリカ人に育てられていたせいで、残酷にも爪が抜かれています。じゃれて手をひっかいたり、家具を傷つけたりしないためです。ところがこの武器を失った猫は、体が大きいせいで、外に出ては他の猫と喧嘩をします。なかなか取っ組み合いは始めないまま、ひとしきり大声で相手を威嚇し、できるだけ自分を大きく見せようと、背を丸めて毛を逆立てます。
 
 人間にも、我が家の猫のように、虚勢を張って生きている人がたくさんいます。人間がそのようにするばあいは、安心して自分を受け入れていない、自分が確立していない証拠です。


T. 競争社会で居所を探して争う 

 自分を確立していない人たちは、いつも争っています。私たちの社会は競争社会、弱肉強食の世界です。人は自分の居場所を探してあらそうのです。自分はできる。彼よりはできる。彼よりは上手い。彼女よりは美しい。彼女よりはもてる。でも、彼よりは貧しい。彼女よりは頭が悪いなどと、人々の中で、自分の立場、居場所を見つけ出そうとするのです。
 勉強をしていても遊んでいてもスポーツをしていても、いつもほかの人たちと自分を比べて、無意識のうちに自分がどこにいるのか、判断しようとしています。

 幼いとき、若いときは、まだ自分の居場所が分からないために、身の丈以上の希望を抱いたり、誇ったり、威張ったりします。あるいは落ち込んだり、ぺしゃんこになったりもします。今日は有頂天だったかと思うと、明日はまるで空が崩れ落ちてくるように悲しみます。

 感情が激しく揺れ動くのは、幼い証拠です。若さの特徴です。感情が豊かだと言われ、可愛らしいと見られることもあるのですが、やはり、信頼が置けないと評価されてしまいます。歳だけはとっても、幼稚な人たちが、以外に多いものです。


U. 居所を守ろうとして争う  

 でも、ある程度成長すると、自分がみんなの中でどのあたりにいるのか、だいぶ分かってきます。美しいか美しくないか、できるかできないかも、自覚するのです。それであまりに現実離れした思いは、抱かなくなります。幼児のようなあからさまな争いはしなくなり、一応落ち着きを見せることになり、不安はなくなったかのように見えさえします。
 
 それでも、人間の居場所のための争いは、絶えることがありません。確保した自分の居場所を守り通し、あわよくば、より良い立場を探し、できるだけ認められる居場所を確保しておきたいと思い、過剰に攻撃的になったり、やたらに防御的になったりします。いったん自分の場所だと思ったところから、引きずり下ろされないように、まだまだ争いを続けなければならないのです。

 そのような、自分を確立できていない状態は、人間関係を悪くし、社会を壊していきます。それだけでなく、一人ひとりの心から安らぎを奪い取り、ストレスを貯めさせ、精神と肉体に病を引き起こします。
現代人の多くが痛み、現代社会が病んでいるのは、まさにこのような争いが果てしなく続き、その中に巻き込まれているからです。


V. 争う必要のない生き方  

 痛みと病を引き起こす、このような争いをなくするために必要なのは、自分自身に対する安心、あるいは納得です。自分はこれでいいのだという自覚です。自信とも言い換えることができるでしょう。仏教で言う悟り、あきらめの境地です。
 
 ところがクリスチャンの自分に対する納得は、ほかの人々との競争と、自覚とあきらめによるのではありません。神様に愛されているという実感によるのです。自分は天地を創造された大きなお方に愛されている。このお方の愛の対象として造られている、この方の愛のゆえに、今生かされているということを実感できれば、争う必要もなくなります。愛されていることに安心し、愛されている自分を受け入れることができるからです。
 
 十字架に表された神の愛をしっかりと感じて生きるとき、揺るがない自己確立が可能になります。私たちの、自分の能力や魅力によって、争いによってではなく、ただ神の愛の対象であるという事実に、自分の居場所を得ることができるのです。
 
 日々聖書を読み、神を称えて祈り、すべてのものを通して語りかけておられる神と交わることによって、ますます神の愛を実感するのです。







posted by まさ at 11:08| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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