2016年03月31日

You raise me up 日本語歌詞

You raise me up 日本語歌詞

下の歌詞はYou raise me up を日本語で歌えるように翻訳したものです。若い人のためにあえて口語体にしています。英語の意味のすべては表現できていませんが、私たちの教会ではこのように歌っています。ただし、ほとんどの人には音域が高すぎて歌えませんので、会衆が歌うときにはかなり低くして・・・・。どうかこの歌詞で歌ってみてください。

「あなたに頼るときに」

重荷に押しつぶされ 痛みに耐えるときも
心をしずめて ただ あなたを待ち続けよう

おりかえし(4回くり返し)
険しい山に登らせ 
嵐の海に歩ませ
強く変えてくださる
あなたに頼るときに

・・・・・あなたに 頼るときに・・・・

  悲しみ溢れる朝も 涙に暮れる夜も
  ひたすら上を見上げて み国の命を想おう
 








posted by まさ at 07:22| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月20日

なつく



 筆者が親しくお付き合いをお願いしている吉原宣教師を、フィリピンのお宅に訪ねたところ、一羽のパラキートが飼われていました。日本語ではふつう「インコ」と呼びますが、現地の人々はパラキートと言います。オウムとインコとパラキート、どこがどう違うのか難しいことは知りませんが、要するに小型のオウムです。

 奥様がとても可愛がっているこのパラキートは、現地の人たちが「バナナ・パラキート」と呼ぶ最も小さなオウムの仲間で、普段はバナナだけを食べて生きています。捕え方は簡単で、熟したバナナの実の上に糸くずを丸めて括り付けておけば、すぐに捕まえられます。エサの上をガサゴソと歩き回るうちに、糸に足をからめとられてしまって、あえなく終わりということです。

 誰か現地の人にもらったらしい吉原宣教師のお宅のパラキートは、奥様だけになついていて、その愛情の表現は見ていていじらしくなるほどです。奥様も可愛くてしょうがないといった感じで、これでは、パラキートの寿命が終わったときには大変だろうなと、ひそかに心配するほどです。

 むかし、私たちが飼っていたバナナ・パラキートは、悪賢いやつで、自分で入り口の戸をこじ開けては逃走し、戻ってきてはバナナを食べて、また逃げ出すことをくり返していたものです。意地悪をして籠の中にバナナを置いて戸を閉めておくと、ちゃんと戸を開けて中に入ってバナナを食べ、また出て行く始末でした。私たちが住んでいた標高1500mの地には、自然に熟するバナナはありませんので、空腹になったら帰ってくるよりしようがなかったのです。

 そうこうするうちに、とうとう帰ってこなくなりましたので、寿命になったか、猫にでも食べられたか・・・。とにかく、それで終わったのです。私たちは淡々と、「あれ、このところ帰ってこないね」と言っただけです。

 それにしても、吉原宣教師の奥様に甘えるパラキートの様子は、感動ものです。忙しくすれ違う奥様に声いっぱいに呼びかけ、籠の中でも一番奥様に近いところににじり寄り、羽を小刻みに震わせて気を引こうとします。奥様が指でさすってでもやろうものなら、目を閉じて首をかしげて気持ちよさそうに、まるで眠ったようになるのです。でも、眠ってはいません。この鳥が眠るときは、コウモリのように天井からさかさまにぶら下がるのです。

 私たちはペットを飼います。中には、人間の感情がまったくわからない蛇やトカゲ、イモリやヤモリを飼う人もいますが、これは例外です。私たちの多くは、自分に「なつく」動物をペットに選ぶのです。

 我が家で飼った猫は、どれもこれも不細工な姿の猫でした。たいていは何匹か生まれて、姿かたちのいいのはみな貰われて行ったのに、最後に残った「かわいげのない」奴が、仕方なく引き取られてきたのです。今いる「ぱんきん」も、世話しきれなくなったアメリカ人が残して行ったものですが、もともとは捨て猫で、何とも「へんちくりん」な顔をしています。ところが、飼って1年もすると、たいした可愛がり方もしていないのに、すっかりなついてわがまま顔に振る舞い、ときには思いっきり甘えてきます。そうなるともういけません。可愛いのです。情が移ってしまったのです。不愛想な顔つきも「個人差」に見えてきて、愛情をこめて「みったくない奴だなぁ。お前は・・」と抱き上げることになるのです。「みったくない」とは、筆者が子供のころ北海道で使っていた、「不細工で可愛げがない」という意味の言葉です。

 特別に優雅な姿をしているとか、非常に珍しいとかいうのは例外として、たいていのペットに大切なのは、なつくことです。あるいは、なついてきたと思われることです。池の鯉も鉢の金魚さえも同じです。人間は自分になつくもの、つまり心を交わすことができるものを大切にし、可愛がるのです。神様が人間をお造りになったとき、ご自分の姿に似せて人間をお造りになったという記述の重要さがわかります。

 神様もご自分と心を交わすことができる人間という動物を造り、これを愛でてくださったのです。人間が神様になつき、甘えれば甘えるほど、神様は私たちを愛(いと)おしく思ってくださるのです。三次元の動植物の中では、唯一、人間だけが神様に似せて造られ、神様と心を交わすことができる能力を与えられているのです。犬も猫も高等な動物として、ある程度人間と心を通わせることができます。猿はもっとでしょうか。でも、犬もの猫も猿も神様と心を交わすことができません。祈ることも拝むこともできないのです。神様に似せて造られていないためも、神様にはなつかないのです。

 人間は神様に似せて造られ、神様との交わりを楽しみ喜ぶように、初めからプログラムされています。そしてその中で、神様に造られ愛でていただいていることを感謝し、賛美をするのです。人間は単に神様を賛美するだけのために造られた機械ではなく、神様の愛と恵みを交わりの中に感じて、自由意思で神様を賛美します。そこが大切なのです。
 
 創世記の天地創造の物語の中で、「見よ、それははなはだよかった」とくりかえし語られた自然の中に、人間は造られ、生かされ、恵みをたくさん受けながら生活していたのです。それが人間本来のあり方でした。そのように暮らすのが、人間にとって最もよいことであり、神様もお喜びになったのです。

 聖書の中に記録されている様々な出来事も、多くの教えも、数々の戒めも、この素晴らしい本来のあり方を失ってしまった人間が、それを取り戻すにはどうしたら良いかということを教えるために、書き記されているのです。それらの中で最も大切なことは、人間がどのように努力したら、取り戻すことができるかということではなく、人間をお造りくださった神様が、人間に取り戻させるために、何をしてくださったかということです。それはとてもむずかしいこと、非常に困難なことでした。でも、人間を愛でておられる神様は、すべてを完全にやってくださったのです。

 ですから、いま人間にできることは何もありません。することがないのです。ただ、すべてを準備してくださった神様に信頼するだけです。それを教えるために、聖書は書かれたのです。人間は、「ありがとうございます」と感謝をして、「神様は素晴らしいお方ですね」と語りかけ、ほめ称えていくだけです。

 吉原宣教師の奥様が近くを通ろうものなら、思いっきり声を張り上げて気を引こうとするパラキートのように、神様に向かって声をあげ、感謝し、賛美し、お願いし、おねだりをしながら生きていくことです。神様も、ご自分になつくものをさらに愛でてくださるのです。





posted by まさ at 13:55| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年09月19日

互いに赦し合う


マタイ18:21〜35
 
 イエス様は「赦しなさい」と教えてくださいました。ただし、ただ赦すのではなく、主にあって赦すのです。それは自分が先に赦されていることを知って、その赦された喜びと感謝を持って、赦すということです。私たちは神様に赦され、永遠の命を頂きました。神は、私たちを赦すために、イエス様を十字架にさえつけてくださいました。ですから私たちも、たとえ自分が損をしても、犠牲を払っても赦すのです。

 人間は赦さないでいると、どんどん悪人となって行きます。私たちには神に似せて造られた性質があり、良心があります。赦さないでいると、その性質が痛み、良心が疼くのです。それをごまかすために、私たちは自分が受けた小さな損害を拡大したり、歪曲したり、うそを言ってまで、赦さないことを正当化するのです。そのようにしていると、そのうそさえ真実と思えてくるのです。

 韓国の人たちを見ていると、まさに、日本を赦せないだけでなく、赦さないと決心して、自分の国や国民が受けた被害をことさら大きく言い、事実を捻じ曲げ、うそを言い続けるだけではなく、それを信じているとしか思えなくなります。それが、国家というレベルで積極的に行われているために、多くの韓国人が日本人を愛することは難しくなっています。それでも韓国のクリスチャンたちは、イエス様の教えに従って、何とか日本を赦し、日本のために祈り、日本人を愛そうとしています。しかし、国家が率先して日本に対する憎しみを増幅させようとして、間違った情報を流して事実を捻じ曲げてきたために、韓国人クリスチャンの日本人に対する思いは複雑です。あるクリスチャン・グループが「日本人を赦さないで来た罪を悔い改めます」と発表したところ、韓国中から大変な反発を食らってしまいました。

 韓国と日本は、もっと仲良くやって行けそうなものですが、いつまでも赦そうとしないで、自分たちの被害を拡大して語ったり、事実を歪曲したりしていたのでは、日本人も、自分たちが犯した韓国に対する罪を、素直に認めて謝ることはできません。韓国に対しては、日本は戦後の賠償を行い、さまざまな支援活動をしてきました。それだけではなく、韓国を支配したときの日本は、経済的に破綻していた韓国に対して多大の援助をして、経済を立て直しました。多くのインフラを整備して、近代国家の礎を気づきました。でもそのようなことを知っている韓国人は一握りしかいません。韓国には、日本を赦さないで行かなければならない、内的事情があるのかもしれません。

 でも、自分たちの被害を拡大して主張するのは、何も韓国に限ったことではありません。日本人も原爆の被害を言い続けています。被害を受けたのは事実ですが、「何の罪もない何万の人々が死んだ」などと言うのはまったくの誤りで、認識不足です。当時の日本では、「一億総玉砕」というスローガンの下、少年少女たちまで軍事工場で働いていたのです。「何の罪もない」などとは言えないのです。原爆の被害を声高に叫びながら、自分たちの国が韓国を初めとする隣国に犯してきた犯罪については、ほとんど口をつぐんだままです。

 自分たちの被害を大げさに言い、自分が与えた損害を過小に評価するのは、歴史上ほとんどの国々がやってきたことです。40数年前、本土復帰運動が激しかった沖縄では、自分たちが大和の被害者だという認識が非常に強かったものです。そのために、何につけても、被害者であると言い募るのが沖縄の人たちの欠点でした。そこで牧師は、「沖縄の人が大人になるためには、自分の受けた被害だけを叫ぶのではなく、自分がどれほど加害者であったかも知らなければならない」と書いて、沖縄の牧師たちの総スカンを食らったものです。 赦さない結果は、赦せない人をいつまでも不幸にし、次々と新たな争いを作り出すことです。

フィリピンという国は、期間こそ短かったものの、韓国と同じように日本の支配を受けた国です。しかし国民性の違いから、フィリピン人は日本から受けた被害をほとんど言いません。年配の人たちも過ぎ去ったことだと言って、日本人を責めません。戦後20年くらいまでは、日本を憎む声もまだ残っていましたが、30年後にはまったく聞かれなくなりました。かえって、日本が統治したことは、フィリピンにとって益となったという声が多く聞かれるほどでした。有名なバターンの死の行進にしても、記念日として大切にされているものの、それで、日本人の悪口を言う人を聴いたことがありません。かえって、そうしなければならなかった、日本軍の苦悩を理解してくれています。日本の戦後賠償についても、韓国人とは異なって、フィリピン人は結構良く知っています。そういうこともあって、フィリピン人と日本は友好関係にあります。その結果、両国は共に益を受けることができるのです。ただ、日本がフィリピンに損害を与えた事実は事実です。せめて、バターの死の行進について知っている日本人が、もう少し多くても良いと思うものです。

 日本人は、フィリピンだけではなく、台湾に対してもシンガポールに対しても、あるいはミャンマーに対しても、インドネシアに対しても、謝罪と感謝の気持ちを持たなければなりません。彼らは侵略者であった日本を赦してくださっているのです。その赦されている事実を軽んじて、感謝を忘れてはならないのです。

 国家間でも、赦さないでいることは益にはなりませんが、一人の人間としてみると、赦さないのは不幸の始まりです。でも、残念ながら、赦さないのではなく、赦せないことが多いのです。赦せるようになるためにはどうしたらよいのでしょう。

 自分が赦されていることを、しっかりと知り、常にその自覚を持ち続けていることです。神はキリストの死という犠牲を払ってまで、私たちを赦し、永遠の命を下さり、ご自分との交わりを回復してくださいました。その事実を常に思い起こし、感謝のうちに生きることです。そのような感謝が私たちのうちに満ち溢れているとき、私たちは赦すことができるのです。韓国のクリスチャンたちの多くは、日本を赦そうとしています。ありがたいことです。願わくは、その上に客観的に物事を見、公平に判断する冷静さをもってほしいと思います。すると、赦すことだけを考えるのではなく、赦されなければならないことも分かってくるのです。そして、すでに赦されていることに驚き、改めて感謝をすることができるのです。そうなると、慰安婦問題でいこじになっている日本人も、素直に謝ることができることでしょう。

 日本人は、国家として慰安婦を狩り集めたことはないと、保証を拒否しするだけではなく、慰安婦があったという事実までも認めない方向に向かいつつあります。韓国の意図たちにとっては、一般民間人がやったか、国家の機関である軍ががやったかはあまり問題ではありません。いずれにしても日本人がやったのです。国家間の保証はすでに済んでいるかも知れませんが、被害にあった一人ひとりの保証はされず、謝罪もされず、人格も無視されたままなのです。







posted by まさ at 11:47| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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