2013年09月19日

祈りの本筋


 人間はあらゆる動物の中で唯一、祈る動物です。祈るということが人間である証拠です。したがって、祈ることは人間である証明です。人間は神に似せて造られ、神と会話をすることができる能力、資質、あるいは性質を与えられているからです。世の中に宗教が溢れ、神の存在を否定する人でさえ、宗教心を否定できないのはそのためです。


T. 天真爛漫な創造者との会話  

 祈るというと、とかく、困ったときの神頼みといわれるように、お願いや訴えを思い浮かべますが、それは、罪によって人間社会が敗退し、さまざまな苦しみや悲しみや痛みによって、人生が醜く変形させられてしまってからのことです。本来、神がお造りになった完全な世界の中では、人間は、お願いや訴えなどを持つこともあまりなかったはずです。神が人間との関係で期待しておられたのは、暖かく穏やかな交わり、心の交流です。人間は神に造られた幸いな命を謳歌し、毎日を喜び楽しみ、神に感謝と賛美を捧げながら生きることです。そのような人間の幸せな毎日をご覧になり、それを愛で、慈しんでくださり、人間の感謝と賛美を喜んでお受けになるのが、人間をお造りになった神の目的です。つまり、何のことはない、平穏で満ち足りた毎日、親と子が楽しく戯れるような神との関係こそが、神が意図されたことです。
 
 それは、神のみ前に生きていること、神のみ手の中に生かされていることを感じ、その中に安んじ、おおらかに自然を楽しみ、与えられている物事に感謝し、歌いながら生きることです。

 罪に破壊され悪魔の支配下で苦しむ現在の私たちの生活の中でも、成長したクリスチャンはそのような神との交わりを楽しみ、安んじ、心豊かに生きることができるのです。ただし、それは一朝一夕で達成されることではありません。困難や悲しみ、痛みや苦しみを通して会と交わり、神の愛と力を体験し続けることによって、作り上げられるものです。


U. 悪魔の支配下で生きる中での神への信頼の表現  

 私たちの祈りは、分からない人が聞くと、お願いや訴えや泣き言や不平の羅列に過ぎないかも知れません。それでもいいのです。もともと、私たちは立派なお祈りなどができる優等生ではありません。出来損ないで良いのです。だからこそ、神様の哀れみに期待するのです。私たちの祈りは、自分の無力さ、非力さを悟って、神に信頼することなのです。祈りは、神への信頼の表現です。祈りは信仰なのです。めちゃくちゃな、支離滅裂な祈りでも、神はきちっと理解してくださいます。とんでもない祈りでも、神はきちっと聞き、正しくお応えくださいます。心配無用です。神は祈りの言葉ではなく、祈りの心を聞いてくださるからです。だから、信頼して祈るのです。
 
 神を信じることができないというのは、祈ることを知らない人の言うことです。祈っているけど信じられないという人は、お祈りをしているのではなく、心で念じているだけ、祈念しているだけです。祈りは念じることではなく、神に対して話しかけること、話しかける対象をはっきりとさせ、訴えることです。念じることにもある程度の力があるかも知れません。しかしそれは所詮有限の人間の念に過ぎません。祈りを聞き、それを叶えてくださるのは、天地をお造りになった全能のお方であり、キリストをさえ惜しみなく与えてくださった愛のお方なのです。ですから心で念じる祈りではなく、この天地の創造者を信頼して話しかける祈りをしていくならば、必ず応えられ、信頼できることが分かってくるのです。


V. 罪の滅びの世界での祈り 

 聖書を表面的に読むと、神の天地創造の目的、人間の創造の目的に気づくことは困難です。聖書は基本的に罪のために滅びに向かっている人々を救うために与えられた、救いへ導く書物だからです。キリストの生涯と教えも救いが中心でした。パウロを中心にした弟子たちの教えも、神の救いが中心でした。ですから、祈りもまた、救いと助けに焦点が向けられていました。祈りだけではなく、活動も救いに関わるものであり、人生そのものが人々の救いのためとなっていました。それはそれで非常に尊いことです。私たちも人々の救いのために祈り、自分の人生を捧げて行きたいものです。一人でも多くの人が永遠の命を得、神が意図された幸いな人生を送ることができるように、してあげたいものです。

 とはいえ、救われた人々がいただく永遠の命とは何でしょう。突き詰めていくと、神が最初に意図されていた、神との豊かな交わりを楽しむことができる命です。神の恵みを燦燦と受け、神を力いっぱい褒め称える、尽きない交わりの人生です。

 私たちはまだそのような永遠の命、完全な救いを手にしていません。しかし今、それを少しだけ味わうことができるのです。それが祈りによる交わりの中にあるのです。

 お願いでも訴えでも、不平でも不満でもかまいません。神に信頼して語りかけましょう。すると神の答えが与えられ、神が信頼に足る方であることが分かります。すると、神に感謝したくなり、褒め称えたくなります。感謝と賛美こそが祈りの本筋です。





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2013年08月18日

食べることに熱心な教会

 
愛餐会
              
 私たちの教会は一緒に食べることに熱心な教会です。機会があるごとに食事会をし、それでは足りなくて料理講習会もしています。実は、教会は使徒の時代から、もっとたどるとイエス様の時代から、食べることに特別な意義を見ていたのです。それは単に神様がお造りになった食べ物を、感謝を持って味わうとか、信徒同士の交わりを豊かにするというだけでなく、もっと奥深いものです。


 聖餐式  

 イエス様が聖餐式を制定されたのは、いわゆる最後の晩餐の席上でした。イエス様はいつも、弟子たちをはじめ周囲の人々と食事を共にして、交わりを深めておられたようですが、この最後の晩餐は特別なものでした。それは、過ぎ越しの食事でもあったからです。過ぎ越しは、イスラエル民族がエジプトの奴隷状態から解放された、紀元前15世紀頃の出来事をことを忘れないために、記念するお祭りでした。そのときは膨らまないパンを食べるのが慣わしでした。民族全体が突然旅立ったために、パンを作る準備ができなかったことを、記憶の取っ掛かりにしたのです。

 イエス様はこの過ぎ越しを、ご自分の贖いの働きと関連付け、神様の裁きからの回避と、罪の奴隷状態からの開放を示唆されたのです。当時の弟子たちが初めからこのような意味づけを理解していたかどうかは別として、教会で一緒に食事をするという習慣はずっと続き、異邦人の教会でも行われるようになりました。


アガペー 

 使徒時代の教会では、このような食事会をアガペー(愛)と呼んでいました。現在私たちが愛餐会と呼ぶのはそのような背景があるからです。当時は「聖餐式」という儀式はまだ生まれておらず、この愛餐会の中で、互いにパンを分け合いぶどう酒を飲み交わして、イエス様が制定された「聖餐」の意義を守っていました。そのような状態から、やがて聖餐式に発展し、カトリック教会によって非常に大切な儀式(秘蹟)と制定されるに及んで、さまざまな非聖書的な教えが付随するようになりました。


カトリック教会 

 カトリック教会ができたときには、現在の聖書は非常に手に入りにくいものでした。印刷技術がなかったために、手で書き写さなければならなかったからです。それで、カトリック教会の教えは、どんどん聖書から離れ、当時の空想的で魔術的な要素と混ざり合ってしまいました。その最も良い例が聖餐式です。カトリック教会ではこれを「ミサ」と呼び、このために教会が存在すると考えるほど大切にしています。その教えによりますと、このミサで用いられるパンとぶどう酒は、司祭の祝福によって、「文字通り」キリストの体とキリストの血になるということです。色や形や臭いはパンとぶどう酒ですが、その実質において、キリストの体と血に変化するというと教えるのです。これを「化体説」と呼びます。そしてこのミサを毎週捧げられるキリストの犠牲と定義し、この犠牲に与れない者の罪は赦されないと教えます。ですから、カトリック教会の信徒は何が何でも日曜日の朝のミサを逃すことができないのです。逃してしまうとその時までに犯した罪が赦されず、天国に入れないと、少なくても一般の信徒の多くは信じているのです。


プロテスタント教会  

 プロテスタント教会は、非聖書的なカトリック教会に反発して、聖書一点張りを主張しますが、実際は、多くの面で、カトリックの非聖書的な面を引き継いでいます。当時の人が問題に感じたところだけ、聖書を読み直し、聖書に倣ったために、問題を感じなかったところは、そのまま放置されてしまったのです。ミサについても、問題意識を持った人たちは改革を試み、ある程度成功はしましたが、さまざまな面で、カトリックの空想的、魔術的要素を引き継いでいます。

 クローズドとオープン プロテスタント教会の中で、自分の教会の洗礼を受けている信徒だけに聖餐に与らせるのをクローズド(閉じられた)と呼び、洗礼を受けていなくても、キリストを信じているものには聖餐に与らせたり、ほかの教会の信徒でも与らせたりするのをオープン(開かれている)と呼んで区別をしています。

 私たちの教会  

 私たちの教会はその意味ではオープンです。クローズドにする聖書的根拠はありません。その上、私たちの教会は、子供や未信者にも、彼らが望むならば、分け隔てなくパンを与え、ぶどう酒を与えます。(酒類ですので子供には与えませんが、ぶどう液の場合は与えます)聖書を読む限り、信者未信者の区別はありませんし、大人子供の差別もありません。むしろ、そのような差別を持ち込むことが、聖書の教えに反すると考えるのです。ただしこのような方法をとっているのは、まだ非常に少なく、ある教団では、このようなことをした牧師は、資格を剥奪されてしまいます。


カトリック教会の残滓 

 このような間違った考えとやり方は、パンは文字通りキリストの体になり、ぶどう酒は文字通りキリストの血に変化すると教えた、カトリック教会の魔術的信仰の残滓です。キリストを信じていない者、キリストを救い主と告白していない者が、キリストの体を食べ、キリストの血を飲むことは、キリストを汚すことになる。とんでもない罪だ。赦されない罪だというわけです。それで、そのような未信者は神様の罰を受けると脅かされ、未信者に与える牧師は神様の裁きを受けると警告されるわけです。このように教える人たちはコリント第1の手紙の11章17〜34節から、彼らの主張を擁護します。でも、この部分を何の先入観も持たずに読むならば、彼らの言っていることが、まったく的外れであることが分かります。

 パウロが激怒している理由 

 ここでパウロが激怒したのは、パンとぶどう酒が未信者にも渡されていたからではありません。よく読めば誰にも分かるように、金持ちの信徒たちが、お腹をすかしている貧しい信徒たちを横に置いて、持ってきた食べ物をさっさと自分たちだけで食べていたことに、怒りを爆発させたのです。彼らの中にはぶどう酒を飲みすぎて、酔っ払っている者もいたほどです。愛の共同体である教会の、アガペーと呼ばれる愛の象徴の食事会で、愛の精神に反することが平気で行われていたのです。これは、キリストの心に反することであり、教会では絶対にあってはならないことなのです。

 病の者が絶えず、死んだ者もいる  

 パウロは、教会がそのような状態だから、病気の者がたくさん出、死者までも出ていると厳しく断罪したのです。これは神様の刑罰で病気になったとか、死んでしまったとかいう意味ではなく、そのような思いやりのなさ、無関心、冷淡さ、差別が、病の者を放置することになり、誰かが世話をすれば助かったものが助からず、死ぬ者たちまで出ていると言っているのです。プロテスタント教会の多くも、カトリック教会の非聖書的な迷信を受け入れ、聖書の教えをあえて曲げて解釈しているため、このようなおかしな解釈が生まれ、聖餐式で信徒以外の人を差別することになっているのです。

 聖餐の意義 聖餐はあくまでもキリストが十字架で成し遂げてくださったことを、私たちが常に思い起こし、忘れずにいるための手段なのです。種を入れない膨らまないパンは、エジプトからの緊急の脱出を思い起こさせるものであったように、キリストの体と血を象徴するパンとぶどう酒は、その意義を理解して口にするものにとっては、キリストの裂かれた体と流された血は、自分の贖いのためあったという事実を確認するものであり、それを信じる信仰を表明するものなのです。ですから、信徒が信仰の確認と告白としてパンとぶどう酒をいただくならば、神様の祝福が豊かに注がれるのです。未信者にとっては毒にも薬にもなりません。ただ彼らが、これはどういう意味ですかと訪ねたならば、それについて信徒たちが説明をすることができます。そこで、これは儀式に表された福音となるのです。


聖餐のさらなる意義 
 
 聖餐には他にも大切な意味がいくつもあります。ただ、一緒に食べるという面からいうと、これはやがて永遠のみ国において、贖われた者たちが連なることになる、子羊の婚宴と呼ばれる宴、食事会をほうふつとさせるものです。私たちは今、教会で一緒に食事をすることによって、やがてみ国において神様が準備してくださり、イエス様と一緒にテーブルに着くことになる、素晴らしい食事会を望み見るのです。教会で一緒に食事をするごとに、天のみ国で、すべての贖われた人たちと、一緒に集い、イエス様と一緒














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2013年08月17日

日本人に私たちの信仰を紹介する

 
              創世記1:1
 
創世記1:1は、多くの神々を拝んでいた当時の人々に対する、天地創造の神の自己紹介です。神はここで、ご自分が多くの神々とはまったく次元の異なる万物の作り主であることを現して、ご自分を紹介をしておられるのです。神は、人間が礼拝すべき本当の神はだれなのか、はっきりさせなければならなかったのです。 

現代の日本も同じ状況にあります。私たちは、私たちが礼拝している方を、上手に紹介しなければならないのです。でも、唯物論に強く影響され、神なんていないと言ってはばからない日本人に、「天地創造の神」と言って紹介するのでは、ギャップが大きすぎます。どのようにしたら良いのでしょう。


T. 自分の本当の宗教心に気づかせる  

 日本人は非常に混乱した宗教感覚の中に生きているために、自分自身の宗教心について、あるいは信仰について正しく理解していません。それを気づかせてあげることが大切です。

@ 消えない宗教心   多くの日本人は神なんて存在しないといいながら、神社に参拝し、お寺に詣でます。人間には神に似せられて造られたという事実が残っているために、宗教心を消し去ることができないためです。
A 崇高なお方   ほとんどの日本人は、自分たちは多くの神々を信じていると考えていますが、その多くの神々をばかばかしいとも思っています。だから、神なんていないというのです。日本人が本当に感じているのはこの多くの神々ではなく、どこにでもおられ、すべての物の内に潜んでおられる、唯一の大きな存在です。
B 感謝の心   日本人の多くは、自分は生きているのではなく、生かされていると感じています。そしてそのことに感謝の気持ち、ありがたいという心を持っています。それを認めないのは傲慢であり、人間として未熟だとさえ思われています。
C どうしたら良いのか分からない   ただ、日本人はどのように感謝をしたら良いのか良く分かりません。誰に感謝をしたら良いのかが、はっきりしないからです。それで、いろいろ曖昧な宗教的表現が残っているのです。
 

U. 感謝の対象をはっきりさせる  そこで大切なのは、感謝の対象、誰に感謝すべきなのかをはっきりさせることです。

@ 私たちを祝福してくださっているお方  私たちが感謝を捧げるべきお方は、私たちを生かし、私たちにすべての必要なものを与え、はぐくんできてくださった方です。
A 私たち日本人が昔から礼拝してきたお方 このお方は、私たちにとってまったく知らない方ではありません。私たち日本人は、良くは分からないままにも、昔からこのお方を崇め、祀ってきたのです。
B 天地を創造されたお方  そのお方は、日本人に太陽を昇らせ、雨を降らせ、山や森を与え、川や海を与え、すべての緑とすべての生き物を与えてくださった方です。その同じお方を、私たちは天地の創造者として崇め、拝み、感謝し、尊んできました。


V. 不義理をお詫びするように勧める 

 日本人は、感謝の気持ちを持っています。ただ、誰に感謝すべきか、どのように感謝すべきか良く分からなかったために、曖昧なままに過ごしてきました。

@ 大きな不義理を重ねてきた   日本人が祭りや宗教行事で表現してきた感謝は、与えられた大きな祝福と恵みに対比べると、あまりにも乏しいものです。不十分です。これは大きな不義理です。日本人は礼節を重んじますが、こんなところで、大きな不義理を重ねてきたのです。
A 不義理をお詫びする   不義理は、気づいたときにしっかりとお詫びをすることが肝要です。そこから正しいお付き合いが始まるのです。私たちと、天地をおつくりになった大きく気高いお方のお付き合いも、私たちが不義理をお詫びするところから、新たに始まります。不義理を詫びたとき、天と地をおつくりになったお方は、とてもお喜びになり、わたしたちを新たな祝福で覆ってくださるのです。

W. このお方に喜ばれる生き方をするように励ます 

次に大切なのは、このお方に喜んでいただけるような、生き方を心がけることです。

@ このお方を慕って生きる  この方の素晴らしさ、その栄光を称え感謝を募らせながら、このお方を慕って生きるのが大切です。この方は人間を愛しておられ、人間がその愛に感じて、この方を慕って生きることを最も喜んでくださいます。そうすると、私たちはいよいよ、この方の祝福を受け、このお方の守りの中に生きることになります。  

A 互いに愛し合いながら生きる  このお方は人間を特別に愛しておられます。このお方に似せて造られているからです。そのために、人間同士が愛し合って生きているのを、一番お喜びになるのです。神を敬い、人間を愛しながら生きるのが人間本来の生き方であり、人間をおつくりになったお方の、お心にかなった生き方なのです。それは難しい生き方ではありません。なぜなら、そのように生きようとするとき、神が助けてくださるからです。

 充分に感謝してこなかった不義理、しっかりと崇めてこなかった不義理を、私たちは「罪」と呼び、これからはもっと感謝をし、お慕いし、喜ばれるいき方をしますという決意を、私たちは「悔い改め」と呼んでいます。

 このように勧めるならば、日本人を愛し、日本人のためにもみ子イエス様を十字架にかけて救いの道を備えてくださった神様は、その十字架の購いの効力のために、日本人を救ってくださるのです。







posted by まさ at 11:54| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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