2012年11月26日

人となってくださった神



ピリピ2:1−11、ヨハネ20:21


 人はひとりでは生きて行けません。ところが集まったら集まったで、人間関係がとても難しくなります。教会も人間の集まりであり、お付き合いがとても難しいときがあります。パウロが開拓をしたピリピ教会でも、いがみ合いや仲たがいがありました。そこでパウロが教えたことは、キリストの心を心とすることでした。

 キリストは、神のみ姿を捨てて人の姿をとってくださったお方です。キリストがお生まれになったのは自分が幸せになるためではなく、罪の中に死を待つ人間を、ご自分の十字架の死という手段をもって救うためでした。他の人のために自分を放棄したのがキリストの姿です。この姿、その心を自分のものにすることによって、私たちは美しい人間関係を作ることができるのです。

 これはもちろん、キリストを主として仰ぐクリスチャンだからこそ、可能となるものです。クリスチャンとはキリストに倣う者であり、キリストに倣おうとするとき、私たちのうちには聖霊が強く働いてくださり、私たちだけの力では到底無理なことも、出来るようにしてくださるのです。


T. 人と共に住む  

 キリストは人の痛みや苦しみ、悲しみや悩みを、本当の意味で理解するために、というより、本当に理解して下さっていると思ってもらえるために、人と共に住むことをお選びになりました。安全なところに留まったままで、危険に瀕している人を助けようとするのではなく、自らも危険の中に飛び込んでくださったのです。

 人を理解するためには、その人の立場まで降りて行くことが大切です。もちろん、私たちが多くの人を理解しようとするとき、それら一人ひとりのところまで降りて行くのは不可能ですが、常に相手の立場に立って考えてみる、慮(おもんばか)ってみることが大切です。立場を変えて物事を見る、相手の立場に立って考えてみるということが、どれほど多くの問題を解決し、円滑な人間関係を作り上げることが出来るか、驚くばかりです。
 
 天のみ国に国籍をもつ私たちクリスチャンが、いまだにこの世に留められ、いろいろな苦しみに喘がなければならないのは、キリストの代理として、世の中の人たちと共に生き、苦しんでいる人たちの苦しみを味わい、痛みを知ることによって、より効果的に、彼らに救いを届けるためなのです。

 教会の中でも、クリスチャン同士が互いに他の人たちを思いやり、立場を変えてその人たちの側に立って考え、慮ってあげることが、キリストの姿に倣うことであり、良い人間関係、平和な喜びに満ちた教会を作り上げる秘訣なのです。そのように努力するとき、聖霊が力強く働いてくださるのです。


U. 自分を捨てる  

 キリストが人と共に住むためには、自分を捨てなければなりませんでした。神の姿、神の栄光、神の権威、神の力、神の知識、神の無限さなどをみな放棄してこられたのです。私たちも人と共に住み、互いに理解し合うためには、多くの場合、自分を放棄しなければなりません。自分の立場、自分の利益、自分の名誉、自分の主義、自分の主張、自分のプライド、自分の好み、自分の欲、自分の理想、自分の目標に固執したままでは、他の人のところまで到達することが出来ません。その人を理解し、その人の立場に立って考え、その人の助けになることは出来ないのです。

 自己否定こそ、他人を活かし、また自分を生かす秘訣です。これは一般の世の中の考え方とは全く異なります。私たちが受けてきた教育、訓練は、みな、自分を活かし自分を高める「自己獲得」のためのものでした。どれだけ自分を大きく見せることが来るかが、最大の関心事でした。しかし私たちがみ国で問われるのは、自分がどれだけ幸せになったかではなく、どれだけ多くの人を幸せにしすることができたかということです。
 
 自己主張をしている限り、自分の周囲の人を幸せにすることは困難です。自己主張をやめ、自分を放棄することによって他人を活かし、幸せにしてあげることが出来るならば、自分を放棄しましょう。他の人の幸せを自分の幸せとすることが出来る人こそ、幸いな人です。

 自己放棄こそm最大の自己主張であるこを知るのもたいせつです。キリストは他の人の救いのために、徹底した自己放棄を実行なさいました。それで、神はキリストを高くあげて、すべての名に勝る名をお与えになったのです。

 私たちは自己放棄をしたために、自分を失ってしまうことは無いのです。神が保証となってくださっているからです。


V. キリストによる自己放棄  

 キリストの歩まれた道を歩むことは易しいものではありません。意思が強く、一度決めたことは遣り通す強靭な性格を持ち合わせている人には、ある程度可能でしょう。しかし、意思も弱い、忍耐力も足りない私たちのような、生半可なクリスチャンには全く不可能のように思えます。ところが、あきらめるのはまだ早いのです。なぜなら、私たちの内に住んで下さっている聖霊が、私たちの内側からの力、動機、励まし、継続力、忍耐力となってくださり、生身の私たちには到底出来ないことを、やり遂げさせてくださるのです。それで私たちの教会は、本当に愛の教会になるのです。
 
 キリストにように歩みたいという願いを起こさせてくださるのは、聖霊のお働きです。それを実行させ、継続させてくださるのも聖霊の力です。聖霊に信頼しながら、祈りながら、努力していくならば、聖霊は確実に成長を遂げさせてくださるのです。

 私たちはしばしば自分の弱さを思い知らされ、涙を流します。しかし、聖霊は私たちをキリストの身姿に似せるお働きを、あきらめてしまうことが無いのです。あくまでも、聖霊に信頼して、一歩ずつ前進しましょう。私たちは、たとえどんなに失敗を繰り返したとしても、私たちを迎えに来てくださるキリストにお会いするとき、完全にキリストに似るものとされるのです。私たちの希望は失望に終わることはありません。





posted by まさ at 09:32| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

神を知らない人のために」



  出エジプト3:1−15
  
 私たちはいま、神を信じることが出来るようになって、喜んでいます。色々な問題に取り囲まれ、辛い目にも悲しい目にも遭いながらも、負けずに生きることができます。なんと素晴らしいことでしょう。でも、私たちの回りにいる多くの人たちは、神を知らないために、頼ることが出来るものをもたず、不安と恐れで、眠ることも出来ない夜を送っています。そのような人たちに、私たちは神を紹介し、神を信じる生活がどんなに素敵か、教えてあげることが出来ます。


T.どのような神か 

 聖書の多くの部分が、神とはどのようなお方なのかということを、知らない人たちに教えるために費やされています。聖書全体が、神の自己紹介の書であるとも言えるほどです。神が最初にはっきりと自己紹介の形で現れてくださったのは、燃える柴の中からモーセに対してお語りになったときです。ここで、神はご自分を「あるという神である」と紹介してくださいましたが、モーセを始め、当時の人々にはその深遠な意味がよく分からなかったことでしょう。

 当時の人々はたくさんの神々を信じていました。それらのほとんどは動物や植物や自然現象などを神格化したもので、多くは偶像として拝まれていました。その中で神は、さらにご自分について明らかにお教えになるために、天地創造の物語をお用いになりました。

 天地創造の物語は、神がどのようにして天地をお造りになったのか、その順序はどうだったのかなどということを、教えるために書かれたのではありません。あなたたちが信頼すべきである私は、天と地を創造した神なのだと、自己紹介をしてくださるめに書かれたのです。私は神々と呼ばれているほかのすべてのものとは違うか神、まったく次元の違う神であるとお教えになったのです。たとえ、「神」という言葉で表現されても、実態は神と言う言葉では表現できない、まったく異なるお方であると教えてくださったのです。

 私たちの周囲の日本人も、神ではないものを神々として祀り拝んでいます。私たちは、私たちの神についてお話しするとき、とりあえず「神」と言う言葉を用いなければなりません。でも私たちが「神」とお呼びするお方は、日本人が神々と呼んでいるものとはまったく異なるお方、時間と物質を超越して存在し、異なった次元をすべて治め、天と地をお造りになった神で、全知全能のお方であることを教えてあげなければなりません。

 それだけではなく、この大きなお方が私たち人間を造り、人間を愛し、人間が幸せに生きるように望んでおられることも、教えてあげなければなりません。今人間が不幸だとすると、それは人間が神の道から外れてしまったからだということも、お話してあげましょう。


U.どんなことをしてくださる神か  

 モーセとイスラエルの人々に自己紹介をしてくださった神は、次に、実際にイスラエルの人々を救い出し、守り、助け、導いてくださることによって、間違いなく、具体的に愛してくださる神であることを、示してくださいました。

 私たちも今、日本人に対して神について言葉と理屈で説明するだけではなく、実際の生活の出来事で、神について教え示していかなければなりません。それは、私たちの証にかかっています。先に神を信じることが出来た私たちに、神がどんなに素晴らしいことをしてくださったか、お話してあげるのです。

 紅海の水が分かれるようなスペクタルな奇跡でなくてもかまいません。雲の柱や火の柱のように驚嘆するような物語が出てこなくてもかまいません。現代の日本に生きる私たちの小さな証が、現代の日本に生きる多くの人々にとっては、一番力のある証なのです。 

 お話している相手が、一番共感できるような証がいいのです。時には不治の病といわれたものが癒された証もよいでしょう。時には殺人鬼が救われて、まったく新しい人生を始めることができた話もよいでしょう。でも、それは時代劇を見るようなもので、本当の共感を呼ぶことが出来ません。聞いている人たちが、「もしかしたら、私も・・・」と思えるような証がいいのです。


V. どうしたら良いのか  

「このような素晴らしい神について知ったいま、私たちは次に何をすべきでしょうか」と、聞いている人が心の中で思えたら最高です。地震に驚かされたピリピの獄吏は、「私が救われるためには、どうしたら良いのでしょうか」と尋ねました。
 
 証の後に私たちがすべきことは、神を信頼するように、お勧めすることです。「あなたも神に愛されています。神に頼りさえすれば、わたしのように神の助けを体験することが出来ます」と励ましてあげることです。
 
 次にはお祈りを進めることです。「頼るとは」祈ることです。「信じる」とは祈ってお願いすることです。「普通の言葉でかまいません。神にお願いしましょう。お祈りが下手でも上手でも、神には関係ありません。心からお願いすることが大切です」と教えてあげましょう。お祈りを導いてあげることも役に立ちます。今日も明日も、少ししつこいくらい、お祈りするように教えてあげましょう。神は、真剣な祈りかどうか見ておられるかも知れないからです。

 さらに、お祈りの答えを期待するように、導いてあげましょう。人間の側には何をすることも出来ないような祈りならば、ただ、信じて待つだけですが、人間側にも努力の余地がある祈りならば、祈りながら積極的に努力することを教えてあげましょう。イスラエルをエジプトの奴隷生活から助け出されたのは神ですが、実際に歩いたのはイスラエルの人々です。歩くように励ましてあげ、歩けることを期待しましょう。

 そのように、まず、神の助けを体験させて、神に対する感謝を持てるようにしてあげ、その上で、教会に来ること、聖書を読むこと、クリスチャンらしく生きることも教えてあげましょう。






posted by まさ at 07:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年11月25日

神のみ手の中に生き、み手の中に死ぬ


 
マタイ12:29

 私たちは正統的なペンテコステ教会に属するクリスチャンです。ペンテコステ教会は、19世紀の終わり頃、世界を席巻していた自然科学万能主義に翻弄されて、聖書の教えをそのまま信じることが出来なくなり、信仰も単なる習慣になり、お祈りも気休めになってしまった教会が多い中で、産声を上げたものです。聖書の中の奇跡も癒しも信じられなくなったクリスチャンたちが大勢を占めていた中で、今も昔と変わりなく生きて働いておられる神様を信じるクリスチャンたちが、力を合わせて作り上げた教会です。
 
 私たちの教会のモットーは、「イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも変わることがない」という聖書のお言葉でした。ですから、私たちの間では奇跡的な出来事を期待し、癒しを体験し、預言を重んじ、夢や幻について語ることもしばしばでした。それはそれで素晴らしいところもあるのですが、少々喜びすぎ、興奮して過激になり、行き過ぎたところもあって、聖書の教えに戻ろう、あるいは留まろうという心ある人たちの働きによって、聖書に立脚した穏健な信仰を旨とする教会になって来ました。


T. 聖書に見る偉大な人たちの最期  

 聖書には偉大な神の人たちの最期の物語がいくつも記されています。モーセの最期やエリヤの最期は、まさに神の人の最期にふさわしい、ドラマティックなものといいたくなります。ところが同じ神の人でありながら、約束の子イサクの最期は盲目となり、寝台から立ち上がることも出来ず、奥さんと息子に裏切られ、「何で? 約束の子が?」と言いたくなるほど、一見、惨めです。

 紅顔の美少年ダビデ、国家的英雄のダビデの最期を読むと、むしろ、老醜と言った方かがよいほどです。身体が冷えて眠ることも出来ない。しょうがないから若い娘二人に沿い寝をさせて、夜をしのいだのです。神はどうしてこのような偉大な神の人を、そんな情けない姿に放り出して、最期を迎えさせられたのか、不思議に思います。「祝福本位のペンテコステ信仰」では、受け入れたくない事実です。

 聖書の中には、たしかに英雄的な最期を迎えた人々がたくさん出てきます。そうかと思うと、一見、哀れとしか言えないような最期を迎えた人々も、またたくさんいるのです。神は、一人ひとりの生き様にあまり干渉しておられないのです。言い換えると、人間がどのような生き方をしようとどのような死に方をしようと、神にとっては大きな関心事ではないということです。さらに別の言い方をすると、英雄的だとか、惨めったらしいとか言うのは、私たちの見方であって、神の見方でもなければ、本当に信仰の篤かった、当人たちの見方でもなかったのです。神を信じる生き方は、そのようなことを超越したものなのです。


U. 神にお任せした生き方  

 私たちの信仰は、信じて祈ったら聞いてもらえた、あれが与えられた、これも与えられた、奇跡が起こった、癒されたというような、低い信仰の次元で終わってはなりません。奇跡を見るのは興奮を呼びます。癒されることは大きな喜びです。でもそのようなものは、まだまだ信仰の初歩の段階に過ぎません。そのようなところを通って、私たちの信仰はさらに高いところに昇るのです。それは、どのような状況の中でも足ることを知る、満足できる信仰です。平安な通常の生活を大切にする信仰です。

 私たちは永遠の神の永遠の愛の対象として造られ、その神の愛により、み子キリストの十字架の血潮によって悪魔の手からか買い戻されているのです。私たちは愛されているのです。そしてこの永遠の愛の神の守りの中に生きているのです。

 私たちから見ると、エリヤの最期は見事です。モーセの最期もさすがです。しかし、イサクやだびでの最後には首を傾げます。でも、神の愛のみ手の中にあっては、大差はないのです。イサクはイサクの人生を送ってイサクの最期を向かえ、ダビデはダビデの人生を送って、自分の最期を迎えたのです。すべては神のみ手の中にあることです。新約聖書でも、キリストの愛弟子ヤコブは、キリストの昇天後まもなく、何の働きもしないまま殉教してしまいました。ペテロもパウロも奇跡的に牢屋から助け出されましたが、やはり最期は殉教しました。神に助け出すことができなかったのではありません。

 丸裸にされて、2羽、5羽と足をくくられてマーケットで売られていた雀を指して、イエス様はおっしゃいました。「これらの雀のうち、一羽でも、神のお許しのないところで地に落ちたのではない」 私たちは神のみ手の中に生き、神のみ手の中に死ぬのです。それを受け入れ、神におまかせし、安らかに生きるのが、私たちの信仰です。


V. 永遠を見つめた生きかた  

 私たちは私たちを愛しておられる神から、永遠の命を約束されてるいのです。その永遠の命の中に、新しい天と新しい地を受け継ぐにふさわしい、完全な肉体と完全な精神を与えられることが含まれています。

 わたしたちは目先のご利益的な信仰から、最高の御利益信仰、永遠の命の獲得へと進むべきです。神は私たちに最高最大のご褒美をくださいます。それに比べると、この世のどのような宝も光を失います。国籍も、家柄も、地位も、立場も、金も、名誉も、権力も、学問も色あせてしまいます。また神のご褒美に比べると、この世のどんな苦しみも困難も悲しみも小さくなります。それを思うと笑われても軽蔑されても認められなくても誤解されても、ほとんど気にならなくなります。私たちは永遠を見つめ、見えないものに目を注いで歩むのです。

 私たちがこの世の生活に気をとられてしまうのは自然です。でも、時々、遠くを見つめましょう。小さな一円玉でも、目の前に持ってこられると、他に何も見えなくなります。この世の中の痛みも苦しみも、あらゆる問題やすべての困難も一円玉です。さらにこの世が与える名誉も富も地位も権力もその他すべての賞賛に値するものも、一円玉です。ちょっと離れてみると、ばかばかしいほど小さな物です。

 イサクもダビデも、モーセもエリヤも神を信頼していました。目先のことに囚われない信仰をしっかりと持っていたのです。




posted by まさ at 18:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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